第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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又吉※※(都屋・女性)大正元年生

シムクガマに行く

 夫は「満州」で負傷して傷痍軍人として復員していたが、一九四五年(昭和二十)に防衛召集されて嘉手納飛行場警備に当たっていた。
 戦争も来るというのに、家には姉の子を含めて五人の幼子を抱えて途方にくれた。周りの家が疎開するのを見てもどうすることも出来なかった。仕方なく※※の人たちの後を追って波平のシムクガマに行った。しばらくそこに滞在していたが、洞窟内は人があふれており、よそ者にはどうも居辛かった。
 ※※の人たちと山原に行こうとしてワンダガー(湾田井)の近くまで来たが、砲弾と打ち上がる照明弾に恐れをなして、引き返しまたシムクガマに戻った。

捕虜になる

 四月一日の昼近く、地響きを立てて米軍戦車が近くに来た。やがて洞窟入口に米兵が現れた。洞窟の岩壁にへばりつき息を殺していた。若い人たちは竹やりを持って震えていた。
 小声で押し問答の末、ハワイ帰りの老人が出て行って話をつけてきた。それによると「殺さない」ということで、安心して洞窟を出た。

都屋へ

 波平の人々と共に都屋へ行くことになった。子ども連れは戦車で連れて行くと行ったが拒んだ。人々と別にされるのが嫌だったし、第一、戦車に乗せられると、そのまま海に捨てられると思ったからである。
 道路は破壊し尽くされていたので、畑や石ころ原野を歩いて都屋に下りると、廃墟の中からたくさんの山羊が私たちを迎えるかのように出てきた。
 テラの壕の周辺にテントが張られており、私たちはそこへ収容された。砲弾は飛んでこないが、特攻機が読谷山飛行場方面から飛んできて海に突っ込んで行くことがあった。
 四角い箱に詰められた米軍の携帯口糧を支給されたが、それでも芋掘りに出た。割りに自由であった。

捕虜虐待

 ※※の前の畑にフェンスが張られ、全裸の日本兵が収容されていた。連日、踏んだり蹴ったりされて足腰も立たなかったようであった。それでも毛布はあてがわれていたが、狂乱した捕虜の一人は喚きながらそれを投げ飛ばしていた。
 殺すなら一思いにやればと思ったが、残酷すぎてまともに見ることはできなかった。人の話によると、終いには目玉を刳り貫かれて死んでいたというが、そんな惨たらしいことは見ていない。
 都屋には一〇日程はいただろうか、後に長浜の海岸近くに移された。そこは戦火による被害も少なく、瓦葺き家も残っており、私たちは分散して泊まった。
 その後、山原に送られる者もいたが、私たちは石川に移送された。都屋から移される時、男の人たちは大分残され、死体処理作業をさせられたということであった。
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