第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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島袋※※(都屋・男性)昭和六年生

都屋の状況

 学校は新校舎が軍に接収され、私たちは座喜味の事務所で授業を受けた。担任は真壁※※先生であった。その後、※※の離れでの勉強となったが、担任は大湾※※(現石嶺)先生に代わった。
 先生方は出身地の近くに配置換えになったのではないかと思う。
 三月二十三日以後は、昼はテラの壕に避難し、夜になると出て食料その他を取りに行った。
 洞窟内は戸板や草の葉を敷き、上には鍾乳石から垂れてくる水除けとして戸板で屋根を作った。鍾乳石から落ちる水溜りがあったので、飲料水はどうにか間に合った。
 慶良間に火柱が上がるのが見え始めた頃、軍から立ち退き命令が出た。母親が「死ぬならここがよい」と言ったので、兵隊は「それでは」と言って手榴弾を二個差し出した。びっくりして疎開準備を始めた。

山原へ

 二十七日か二十八日の夕方、都屋を発った。家の台所の味噌瓶が機銃弾を受けて割れていた。稲福の瓦葺きの家は傾いていた。
 伊良皆の東部の山に一泊した。近くの高射砲部隊が空襲を受けたのであろう、高射砲の砲身は曲がり、死体にはカマスが掛けられていた。
 翌日の夕刻、喜名を通ると役場は残っていたが、学校の新校舎は炎上していた。県道は並松(ナンマーチ)が切り倒され道路上に横たえられており、橋はことごとく破壊し尽くされていた。
 山田に一泊、名護の七曲がりに達する頃、頭上からの砲弾飛来がすさまじく、名護の町が炎上しているのが望見された。
 伊豆味に一泊して今帰仁に至る。道中、当時十歳の弟※※に黒砂糖を食料として担がしてあったが、着いてみると大分減っていた。歩きながら食べていたのである。

捕虜になる

 今帰仁の洞窟は海浜にあった。潮が引くと入れるのである。
 近くに米軍戦車が来たので、知花※※・※※兄弟と私は、藪に逃げ込み一日中動かなかった。家族が米軍に収容されたことを知り、投降した。
 年頃の女性たちは米兵による暴行を恐れ、黒髪を絶ち、顔に鍋墨を塗る者もいた。
 夜、収容所に米兵が侵入してきて、懐中電灯で探し出して拉致することがあった。もちろん後で帰されるけれども、いずれも暴行の後だった。
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