第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


<-前頁 次頁->

喜友名※※(波平・男性)昭和十一年生

戦争直前の学校

 学校は軍に接収されて、各字での分散授業となっていた。私たちの組は井之原にカマスを持って行き、青空教室だった。場所はアガリジョウ(東門)だったこともある。
 当時、私は国民学校初等科二年生で、別の先生が受け持っておられたが、分散授業となってからは知花※※先生に受け持ってもらった。

シムクガマとその後

 米兵が来たと言うので騒然とした。子どもは奥へ行けと言われた。結局、捕らえられてナカマ田の下に集められ、都屋に送られた。
 祖父に当たる知花※※は、「俺は(シムクから)出ない。どうせ死ぬなら生まれ島で死ぬ」と言い張った。都屋に着いてみると、彼はすでに収容されていた。
 アガリシムクガマにいた※※のおじいさんは先に捕まっていたが、同じ所(ナカマ田)に集められた時、「どうせ殺されるのならば、これを食べてから思いを残さずに死のう」と言って、食べた油味噌の味が忘れられないと後日語った。
 ※※のおじいさんは、米兵が差し出すチョコレートには毒が入っていると思って絶対に食べなかった。ところが日本軍が使い残したダイナマイトの芋(ニトログリセリン)を食べて泡を吹いて死んだ。捕まって都屋に移された日だったと思う。
 都屋に着いてからもシムクに戻って食料をとって来た人もいた。割合自由に歩き回れたし、日本語を話せる米兵もいて、何とかこちらの意思も伝えることが出来るようだった。
 斬込隊だったという兵士が捕まってきた。気力も体力も失せ果てたような兵隊は飯盒だけをもっていたが、米兵が取り上げ蓋を開けて中をのぞき、それからポイと捨てると、中から芋粕握りや僅かばかりの乾パンが散らばった。
 有刺鉄線の囲いの中に全裸で入れられ、毎日足蹴にされたり、銃の床尾板(しょうびはん)で頭を殴りつけられていた。三日くらいは生きていただろうか、死に顔を目にした時、その兵隊の目玉は抜かれていた。
<-前頁 次頁->