第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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比嘉※※(楚辺・女性)明治三十九年生

誉れの家

 夫比嘉※※は中国で戦死し、姑と子ども四人を抱えていたが、当時は「誉れの家(戦死者の家)」と言われた。
 夫は一九二二年(大正十一)一月十日、第六師団歩兵第四七連隊第九中隊に入隊し、一応満期除隊するけれども、一九三八年(昭和十三)五月二十五日、充員補充のため歩兵一一三連隊補充隊に応召し、同日、歩兵第一一三連隊第三大隊本部に編入された。ということになっていることから、現役から十六年目、つまり三十六歳で再召集されたのである。
 その後の※※の動向は、次の通りとなっている。
  一九三八年(昭和十三)
   六月二日   熊本出発
   六月三日   門司港出発
   六月五日   上海上陸
   六月六日   江蘇省南京着 そして出発 安徽省蕪湖着 同地警備
  六月十八日より 同省繁昌県荻港付近の戦闘並びに対陣
 六月二十二日   荻港付近の戦闘に於いて戦死 歩兵上等兵
 こうして国を出てから僅か二〇日目、家を出てから二九日目には戦死ということになっている。

避難そして投降

 一九四四年(昭和十九)十月十日の空襲後、※※の実家※※一門は、美里村山城の※※を借りて子どもたち三名を疎開させてあった。ところが皮肉なことに、米軍上陸直前、子どもたちは楚辺に帰ってきていた。
 三月二十五日、砲弾の降りしきる中を、家族全員もてるだけの食料等を抱えて、姑(七十三歳)とともに山城へ歩いて行った。山城への途中、木立の中を行くと、砲弾で吹き飛ばされたのか誰かの足が松の枝に掛かっていた。
 山城に居ては危ないと言うので、越来村久保・倉敷へ行った。避難壕も無く行方に暮れている屋号※※の連中がやって来た。可哀そうに思って壕に入れてやったら、他の人々、つまり地元民から叱られ、散々嫌味を言われた。
 四月二日の朝、壕の中にいると何だか平素と様子が違う。異様な声も聞こえてくる。敵に包囲されたのである。
 「デテコイ」との声に意を決した※※のおじいさん(元村議会議員)が手をあげて出て行った。しばらくして、誰も殺さないから皆出るように、と伝えられた。
 ※※のおばあさん(七十二歳)が子どもたちを連れて先頭に立って出て行くので、残りの者たちは後に続いた。

父戦死(次女※※の証言)

 当時(一九三八年)、私たち兄弟は、姉※※(十二歳)、私(十歳)、弟※※(三歳)、次弟※※(一歳)の四人であった。
 私は外出からの帰りに、門の前に自転車があるのを見て何だか胸騒ぎがした。薄暗い中で姉の※※が泣いていた。戦死公報の入った日だったと思う。
 宜野湾村伊佐の豊永さんと中城村安谷屋の小波蔵さんは父と同年兵で、負傷して帰還していた。
 二人の話によると、敵の銃砲撃が激しく、待機していたが、突撃命令がかかると父は真っ先に飛び出し、砲弾を受けて戦死したということであった。
 那覇港に遺骨を迎えに行った。船からたくさんの花輪が下ろされた。
 埠頭で合同葬が行われたが、相当な数の戦死者であった。読谷山村での村葬は読谷山尋常高等小学校で挙行された。
 金鵄勲章(きんしくんしょう)伝達式では、比嘉幸太郎村長は母※※を壇上に上げ、伝達した。
 父に召集の赤紙が来たのは一九三八年(昭和十三)のクシアブシバレー(後畦払い)の日であったと記憶している。令状を受け取り、父が「印鑑はどこか」と言ったら、母は「箪笥の上」と答えていたことがなぜか印象に残っている。
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