第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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宇江城※※(親志・女性)明治二十八年生(宇江城※※について)

娘※※看護婦となる

 娘※※は読谷山尋常高等小学校高等科を卒業後、青年学校に通っていたが、男勝りで鋤を使って馬耕もやっていた。
 十八歳で沖縄県立病院付属看護学校に受験し、合格した。十・十空襲で病院は全焼し、入院患者を全員安全に避難させ、その後しばらく帰省していた。
 十一月、宜野湾に集結せよとの命を受け、直ちにそこへ向かった。看護学校同期生の中には八重山に配属された人たちもいた。
 十・十空襲後の帰省中に、屋宜※※(現姓古堅)たち数名が「ずっと留まって家族と行動を共にしたら」と勧めた。ところが本人は「女だけの姉妹では男のようにお国のためには働けない。しかし私は看護婦である。従軍看護婦なら兵隊に負けない働きが出来る」と決意を語った。

南風原陸軍病院で

 手紙が来たので南風原国民学校へ面会に行った。幸い海軍部隊のトラックが島尻に行くというので便乗させて貰ったのである。
 ※※は将校の伝染病棟にいた。二月だというのに素足にアダン葉草履で、服装は私の着物を更生したモンペ姿であった。県病院時代のあの白衣姿に比べると落ちぶれたようで、涙無しには見られなかった。
 別れる時はいつまでも見送っていた。次の土曜日には帰るからとの約束だったが、空襲やその他の事情があったのだろう、とうとう帰って来なかった。
 その頃、私の家に駐屯していた誠部隊の隊長が入院し、その当番兵が※※の様子を知らせてくれた。元気で毎日壕掘りをしているとのことであった。
 誠部隊とはよく付き合っていた。私たちの家はイジュンジャーの山を一つ越えた一軒家だった。誠部隊はその一番座を借り、庭にはテントを張って中隊本部としており医務室もあった。家の前には食糧が山積みされており、馬も三頭いた。

避難

 誠部隊の転出後、座喜味に間借りしていた女の先生方が移って来た。
 三月、喜瀬武原は安全というので、與座※※、喜名※※先生方と一緒に行くことになった。
 首里に行った他の二人の先生方は亡くなられた。
 喜瀬武原でも戦闘はあり安全ではなかった。兵隊に言われて指定避難地の国頭村奥間へ向かった。三日間もほとんど飲まず食わずで歩きとおした。
 米軍は奥間にも迫ってきたので山に逃げた。しかしそのまま山の中を逃げ回ると病気になるので、意を決して山を下りようと思った。
 羽地に行くと難民収容所があるとのことでもあり、和英両文の説明書(宣伝ビラ)も持っていた。
 新崎※※が「読んではいけませんよ。彼らの言う事を信じてはいけませんよ」と方言で言った。そうかも知れないとは思いながらも山を下りた。四月の何日だったかは覚えていない。人々は米兵の前で皆怯えていた。女は一か所に集められていた。
 私は、「奥の方には老人や男たちもいるから、明日、連れて出てくる」と偽って逃げた。(※※)
§
 地元の人という男に金を出して道を教えてもらい、降りしきる雨の中、慣れない山道を一〇日間も歩いた。途中、大勢の兵隊が列をなして通って来たので、ご苦労様となけなしのお茶を上げたが、彼らは敗残兵ということであった。
 私にも銃があれば戦えるのだがと悔しがっていた父は、六月二十日に亡くなり、二十一日には後を追うように姉が死んだ。
 七月には投降して有銘の大きな家に厄介になっていた時、母は芋取りに出かけており、私(※※)と祖母が父の傍らにいたが、急に父の容態が悪化し、「駄目なんだね」と祖母が言ったので怖くなり私はその場から立ち去った。下から母が駆けつけてきたが、すでに息を引き取った後だった。
 大家さんに頼んで板をわけてもらい、棺箱を作り葬式をした。夜間ではあったが謝花※※さんも告別に参加してくださった。(妹※※)
§

※※からの便り

 新年おめでたう御座居ます。御元気にて昭和二十年度をお迎えされた事と存じます。自分も毎日元気で勤務に懸命です。
 お別れしてから早二か月になります。お便りも送らず嘸(さぞ)御心配なされた事と存じます。毎日毎日忙しくてつい御無沙汰に打過ぎ誠に失礼致しました。悪しからずお許し下さい。
 伝染病棟の勤務も大分馴れて近頃では勤務が面白くなりました。昼間は忙しいので何も考えませんが夜になると家の事を思ひ出して淋しい時があります。
 同じ県内であり乍ら帰る事も出来ず軍隊生活といふものはさびしいものです。かうして働くのも国のためですから仕方のないものです。
 兵隊さんを治して再起奉公させる直截御国に対する御奉公ですから如何なる辛苦に逢はうともあの憎き米英が存在します限り頑張る心算(つもり)です。
 姉さんは今も家におりますの、作物の出来はどうでせうか。稲は風のため出来が悪いそうですね。
 お母さん何時か南風原に来て下さいませんでせうか。印鑑を持ってきて下さいねお忙しいでせうがお願ひします。それから帳面二冊鉛筆二、三本位※※からでも分けて来て下さい。
 体温計がありませんですから家でつかって居るのを貸して下さいませんでせうか。何時か外出する時に買って来ますからそれもお願ひします。
 首里から一里位ですから未だをばさんの家へも行かれなかったでせうか。此処へ来て一度も外出した事が無いのです。黒糖がなければ買っておきますがどうですか。
 もう家へも帰れないと思ひますからお母さん必ず来て下さい。
 妹達学校はどうでせうか。今年女学校の入学試験もあるやうですが、今の時局では駄目ですね。可愛そうですが仕方ないです。
 石嶺の方や親類の皆様に宜しくお伝へ下さい。それから仲宗根の姉さんは子供まだ出来ないでせうか。
 ではお休みなさいませ。私今夜不寝番です明日の朝迄。
 父母上様  カメ
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