誠部隊の転出後、座喜味に間借りしていた女の先生方が移って来た。
三月、喜瀬武原は安全というので、與座※※、喜名※※先生方と一緒に行くことになった。
首里に行った他の二人の先生方は亡くなられた。
喜瀬武原でも戦闘はあり安全ではなかった。兵隊に言われて指定避難地の国頭村奥間へ向かった。三日間もほとんど飲まず食わずで歩きとおした。
米軍は奥間にも迫ってきたので山に逃げた。しかしそのまま山の中を逃げ回ると病気になるので、意を決して山を下りようと思った。
羽地に行くと難民収容所があるとのことでもあり、和英両文の説明書(宣伝ビラ)も持っていた。
新崎※※が「読んではいけませんよ。彼らの言う事を信じてはいけませんよ」と方言で言った。そうかも知れないとは思いながらも山を下りた。四月の何日だったかは覚えていない。人々は米兵の前で皆怯えていた。女は一か所に集められていた。
私は、「奥の方には老人や男たちもいるから、明日、連れて出てくる」と偽って逃げた。(※※)
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地元の人という男に金を出して道を教えてもらい、降りしきる雨の中、慣れない山道を一〇日間も歩いた。途中、大勢の兵隊が列をなして通って来たので、ご苦労様となけなしのお茶を上げたが、彼らは敗残兵ということであった。
私にも銃があれば戦えるのだがと悔しがっていた父は、六月二十日に亡くなり、二十一日には後を追うように姉が死んだ。
七月には投降して有銘の大きな家に厄介になっていた時、母は芋取りに出かけており、私(※※)と祖母が父の傍らにいたが、急に父の容態が悪化し、「駄目なんだね」と祖母が言ったので怖くなり私はその場から立ち去った。下から母が駆けつけてきたが、すでに息を引き取った後だった。
大家さんに頼んで板をわけてもらい、棺箱を作り葬式をした。夜間ではあったが謝花※※さんも告別に参加してくださった。(妹※※)