第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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新崎※※について 話者 新崎※※(比謝矼・女性)大正六年生

入隊前の苦悩

 新崎※※は、私の義弟に当たるが一九四五年(昭和二十)当時、沖縄師範学校本科二年生であった。在学中徴兵検査を受けて甲種合格し、現地入隊することになって、しばらく自宅待機していた。
 二月二十八日、入営諸手続きのため役場に出頭したが、道中、上空には米軍の大型機が縦横に飛行雲を引き、キラキラ輝きながら飛んでいたという。
 三月一日、首里第三国民学校在の石部隊への現地入隊と決まった。その日、帰宅してから書斎にこもって静かに何事かをやっていた。私が様子をうかがうと、机に向かって筆を動かしていた。その半紙には何と「ただ斬込みあるのみ、ただ斬込みあるのみ」とそればかりを書き続けていた。
 父や長兄※※、それに姉※※はフィリピン、次兄※※は台湾から召集されてこれまたフィリピン、そして母は甥(私の子)と国頭村へ避難して不在である。
 明朝の入隊をひかえて家に居るのは私一人、晴れの入隊を前にしてこの義弟の心境、多感な青年の胸にはどのような思いが渦巻いていたであろうか。
 涙を抑えて※※の隣に座した。「無闇に斬込み、斬込みはいけないよ。二十年にわたるお母さんの養育を無にしてはいけないよ」と言い終わるとどっと涙が流れてきた。すると義弟は両手を組んで後頭部を支え、そのまま畳の上に仰向けに寝て、天井を見詰めたままつぶやいた。「アンセーチャースガ(それではどうすれば良いと言うのか)」。

出征の朝

 夕方から私の実家で山羊をつぶして壮行会を開いてくれることになった。親のいない子の壮途を晴れやかなものにしたいとの楚辺の人々のせめてもの心遣いであった。
 義弟は気を取り直したように支度をして、二人で出掛けた。しかし道中は全く無口であった。
 出征の朝はやってきた。そこにはかつてのように「祝出征」とか「祝壮途」と染め抜かれた幟も無ければ、歓呼の声や旗の波もなかった。
 楚辺の叔父たちは手を握り、「体には気をつけるのだよ」としみじみ語るだけの寂しいものだった。
 義弟はふと顔を上げて私の顔を見つめた。口には出せない別れの言葉を彼の目は語っていた。そして「筆と墨を」と言った。
 昨日からの磨り置き墨と半紙を持ってくると、彼は垣根を背に、沓脱(くつぬ)ぎに片足をかけ、腿の上に載せた半紙にサラサラと筆を走らせた。それは次のようなものであったが、結果として遺書になった。
 愈々三月一日ヲ以テ石部隊ニ入営シマス。父母ノ顔ヲ見ズニ征クノモ亦一ツノ戦争ノ国ノ特徴デス。今入営スルニ際シ何ラ後顧ノ憂ナシ。
 長キコト悠ニ二十年ノ年月、幾多ノ辛ヲ積ミ重ネ自分ラヲ成人ニ仕遂ゲタル唯一ノ母ニ誠ニ感謝ノ仕様ガアリマセン。遥カ国頭ノ異郷辺土ニ於テ自分ノ子ノ入営ヲ送ル母ノ気持、心ガ※※ニハヨク分ツテ居マス。何モ悲観シタリ寂シクシタリスル必要ハ有リマセン。
 ※※ハ喜ビ勇ンデ入隊シマス。ドウゾ御体ニ気ヲ付ケラレテ最后ノ勝利ヲ待ッテ下サイ。
 ※※ヘ
※※クン オジサンハ ヘイタイニイキマス
ヤガテ ニッポントウヲサゲテキマス
サビシガラズニ オトモダチト ヨクアソンデ
リッパナ ツヨイ ※※クンニナリナサイ
マタアトデ テガミヲオクリマス

入隊当時の※※に面会

 慌しく学園から入営した※※は、寝具や本類も鳥堀寮に残したままだった。それらを引き取りに行き、入隊先にも回って※※に面会しようと思い立った。
 楚辺に駐屯していた高射砲部隊の隊長はかねてから実家の人たちとは懇意にしていた。実家は雑貨店をしていたことから、隊長さんとはいろいろな物の融通を図ったりもあったようだが、実兄※※が将校として南方戦線に派遣されているということもあって、実家の人達には特別の好意を寄せていた。
 その部隊が繁多川に移動することになって、先遣隊として小浦軍曹を送り込むことになった。首里へ行くなら、先遣隊の車に乗せて上げるというので、好意に甘えて便乗させてもらい、首里へ出掛けた。
 鳥堀寮に行って見ると岳原※※が居たので手伝ってもらって荷物をまとめ、二人で※※に会いに行った。
 駐屯地の首里第三国民学校に行くと、新兵は目下教育訓練中ということで、衛兵所前で待っていた。
 運動場に目をやると、四列縦隊で行進中の一隊の前から二列目に※※がおり、彼も目ざとく私たちをみとめた。
 訓練後、近くの墓地の傍らで会うことができた。持参してきた牛肉の煮物を美味しそうに頬ばるのを見ると心が痛んだ。金鵄の煙草や黒糖は楚辺の私の実家からのものだった。どのぐらい話し合ったのだろうか、面会時間は余り長くはなかったように思う。

弟に会いに行く

 ※※との面会が済むと、儀保町に取って返し、弟池原※※に会いに行った。
 しかし彼は級友が予科連に合格したので、その壮行会のために与那原へ出掛けて不在。同宿の師範本科生が一人で酒を飲んでいたが、※※については「私が女なら、※※君みたいな男の妻になりたい」と語ってくれた。しばらくして、そこを辞し、荷物のところへ戻った。

その頃私は

 その頃まで私は農林学校に置かれていた軍の被服廠で働いていた。軍服の修理や階級章を付けるのが主な仕事であった。
 当初は比嘉※※も一緒だったが、女学校卒業は教員になれるということで、途中から被服廠を去り、教職に就いた。
 ※※は幹部候補生受験のため農林学校へ来ていたとの噂もあったが、会ったことはない。単なる噂だったのではなかろうか。

兄池原※※

 兄は私の夫、新崎※※とは同年の一九一四年(大正三)生であった。一九三二年(昭和七)、沖縄県立第一中学校を卒業し、一九三四年(昭和九)、第六師団歩兵第二三連隊都城へ現役入営した。
 当時の就職難から考えて、職業軍人を目指したのではなかろうか、幹部候補生となり熊本の予備士官学校へ入校した。
 「支那事変」(日中戦争)勃発とともに大陸へ派遣され、一九三八年(昭和十三)、武漢三鎮攻撃の際は軍曹として漢口攻撃に参加、その城門に一番乗りして日章旗を掲げ、指笛を吹き鳴らし勇名を轟かした。
 当時の従軍僧名幸※※氏の連絡により沖縄新報に掲載され、国民の士気高揚、精神作興にも一役をかった。
 一九四三年(昭和十八)五月、ソロモン群島ブーゲンビル・ショートランド島で戦死。陸軍少尉。
 「制海・制空権は敵のものだったが、地上軍は数倍の豪州軍を相手に勇猛果敢に戦っていた。
 タロキナ岬の攻防戦で、敵の堅固なトーチカ陣地がなかなか落とせない。突如、火薬を詰めた鉄筒を抱えた七名の者がトーチカ銃眼を目標に突っ込んだ。池原※※准尉の一団であったと言われる」(山城※※談)。
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