第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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山内※※(比謝矼・男性)大正五年生

野戦病院

 急遽野戦病院に充てられた建物は壁に弾痕が残り、いかにも激戦の跡の廃墟という感じであった。
 血と膿臭と糞便、それにクレゾールの臭いが充満し、衛生兵たちは用が済むとあたふたと駆け去る。間断なく聞こえるうめきの中に、時々悲鳴が起こると衛生兵たちの大きな叱責が室の空気を揺るがす。
 相続く下痢で刻々体が弱って行くのが自分でも分かる。けれども意識は明瞭である。衛生兵たちのささやきがはっきり分かる。
「南部へ移動する」
「この患者たちは…」
「重傷者と伝染病患者は始末する」
しかし、こうした話も自分とは関係ないような遠いこととしか思えなかった。

毒薬を打たれる

 そうした夕刻、あたりが急にざわめき立った。衛生兵たちの動きが激しくなったのである。上官の指示にしたがって、「はっ」「はっ」という威勢の良い返事と共に靴音高く動き回っている。
 「さあ、栄養剤だ」とか「リンゲルだ」と言いながら活動し始めた。と同時に「ムーッ」と大きなうめき声が起こった。
 これで初めて分かった。始末しているのだ。殺されるという思いが脳裏に走った。その間にもうめき声は上がる。
 「俺は嫌だ。打たれるのは嫌だ」と声を限りに叫んだ。そこへ衛生兵が近づき腕を押さえにかかった。思い切り暴れた。殺されるという恐怖の念以外何もなかった。渾身の力を振り絞って抵抗した。するといきなり別の衛生兵が腕を押さえ込み、針を刺した。
 「こいつ、針を折りやがって」ということは聞いたが、たちまち何かにのめりこんで行くような気持ちになっていく。「天皇陛下万歳」と叫ぶ声を聞いたような感じがした。
 死ぬものかという思いで、無我夢中に頭を振りのめり込んで行く意識を引き戻そうとした。寝台から落ちて土間でのた打ち回る内に、スーッと意識が遠のいて行った。

無意識での先輩の叱責

 「※※、そんなゴーマーバイして、それで走れるか。明日からお前は来ないでもよいぞ」運動会練習時の、比嘉※※の声である。
 比謝矼は私が青年団に入った頃、戸数約一〇〇戸、子供たちは小学校を卒業するとほとんど中等学校へ進学する。したがって青年団員の数は他の字に比べて極端に少ない。この少人数の青年で大きな字の青年団と対抗して、陸上競技で優勝記録を続けるには特訓以外に無い。
 青年団の先輩、比嘉※※の叱責の声は容赦なく私の上に注がれる。「なにくそ、負けるものか」私は歯を食いしばって走ったが、焦ればあせる程足は前には進まない。「なにくそ、なにくそ」と頭を振りたてている内に、あたりの様子が分かりかけて来た。
 真っ暗な闇の中、コトリと物音一つしない。頭がズキズキ痛む。冷たい土間の感触が頬に手に伝わる。
 「生きていたのだ」「殺されなかったのだ」と気がつくと、頭痛は一層激しくなる。
 「ハーハー」吐く息が臭い。今まで経験したことがない異様な激しい臭さが自分の体内から出てくるのだ。
 生きているという気はあるが、体は全然意のままにならない。いや、むしろ動いてみたいとの気力も失せていたのである。夜明けが待ち遠しく、そして恐ろしくもあった。

後方へ転送

 こうして翌日は生きていることを認められ、後方へ転送されたが、救ってくれたのはあの衛生兵たちではなく戦闘部隊であった。
 不信の念は絶えずつきまとう。「生きて虜囚の辱めを受くるなかれ」それも分かる。重傷者は始末されなければならない。そして始末された者が名誉の戦死であり、あるいは戦病死という事務処理なのだ。
 死生の間をさまよった時に現われたのがあの厳しい比嘉※※先輩の叱咤の声だったと、思い出すのである。
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