第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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仲宗根※※(儀間・男性)大正八年生

多野岳に移動

 私は一九四五年(昭和二十)二月、越来村森根の球部隊へ防衛召集された。高志保の大城※※さんが中隊長であった。
 防衛隊とはいえ銃は行き渡らず、竹やりを作り武器としたが、手榴弾は二個支給されていた。
 状況は悪化して三月二十八日、防衛隊は国頭へ移動せよとの命令が下った。目的地は多野岳で、各小隊ごとに森根を出発し、そこで集結することになっていた。
 翌朝、多野岳に着くと、乾麺包(乾パン)を与えられ、いきなり死体処理を命ぜられた。前日、米軍に包囲され、麓で戦闘が行われて我が方に三〇人ぐらいの戦死者が出たのである。初めて手を触れる死体は本当に怖かった。

故郷へ向かう

 小銃も持たない私たち防衛召集兵を足手まといと思ったのか、自活班として羽地村源河で農耕をせよと言われた。
 情報を総合してみると、どうも戦は見込みがないと思われたので、山城※※(渡慶次)、町田※※(儀間)、大城※※(儀間)、知花※※(渡慶次)らと共に計らい南下することにした。未知の山の中でむざむざ死ぬよりは故郷で死んだほうがよいと思ったからだ。だが、それ以上に故郷でなら何とかなるという気もあった。
 恩納岳で二、三日潜んで、読谷山に出発しようとしたら、玉城※※(渡慶次)と老婦人が加わり、合計七人となった。昼は隠れて夜間、川や谷底を歩いて南へ向かった。目標は座喜味城跡の赤ランプで、時々丘の上に這い上がり方向を確認した。
 冨着の山の中に来た時相談した結果、山中を行くより海岸伝いに進んだ方が安全に行けるのではないかとの考えにまとまった。
 国頭街道(県道、現国道五十八号)は絶えず米軍トラックが往来する。車の流れが切れた時を見計らって道路を横切り、海岸に出た。
 互いに確認し合ったら私、山城、町田、知花の四人で、後の者たちはなかなかやって来ない。とうとう待ちあぐんで四人で歩き出すと、闇の中でゴソゴソうごめくのがいる。様子をうかがってから近付くと、恩納村宇加地出身の防衛隊員たちで、伊江島から逃げてきたという。五人で芋を掘り、火もないことからそれをどのようにして煮たらよいか、考えも付かずにゴソゴソしていたと言うのである。
 彼らに読谷山への道を尋ねると、久良波曲がりと眞榮田岬は米軍の駐屯地となっており、その近くは通れないことを知った。
 彼らと別れて、なおも海岸伝いに南下を続けていると前兼久の浜でクリ舟を発見した。
 その舟を下ろして乗り込み、水際を離れた。午後の九時頃である。船頭は山城で、私たちは板切れを櫂にして漕いだ。
 いくらも進まない内に、激しい水漏れがした。ユーハイ(水抜き穴)が開いたままだったのである。
 着物を引き裂き、それをユーハイに押し込みながら、一人は絶えず舟のユー(浸水した潮水)をくみ出さなければならなかった。
 夜が明けきらないうちに読谷山には漕ぎ着かなければならない。とは言っても最短コースばかりを取るわけには行かない。眞榮田岬では米軍の目をかすめてかなり迂回しなければならない。必死に漕いだ。
 翌朝四時半頃、瀬名波ガーに着いた。岩間を這い上がると墓があり、その中に米が四俵あった。各自持てるだけ取ると、そのまま進んだ。
 川平の坂を行くのが大変苦しい。食は十分に摂っておらず、その上必死で漕いできたのである。体力はすっかり消耗し、おまけに一人残らず足は浮腫(むく)んでいた。
 瀬名波を通り、渡慶次に入ろうとすると部落は影も形もない。儀間に行くと屋敷は残っているが家屋はない。※※の家は爆風で潰され、擬装用アダンに覆われていた。
 ※※の防空壕でバケツに玄米を炊き食べた。本当に久しぶりの食事である。味噌は持っていた。
 ※※の畜舎は焼けずに潰れていたので、昼はその茅の中に潜り込み隠れていた。
 下の方からは終日飛行場つくりの重機の音が響いていた。六月の九日頃だっただろうか。
 夜になり、辺りを確かめに出たら※※の家がどうにか残っていた。その屋敷には近隣の山羊が集まっていた。一匹を潰して※※の防空壕で煮たが、それには一晩中かかった。交代で食べ、洗濯もした。
 ※※の畜舎は半ば茅葺き半ば瓦葺きであった。その中のサトウキビの枯葉の中に潜り込んで寝ているところへ上半身裸の二人の米兵が来た。
 見付かったと思う瞬間、三人は飛び出して※※の庭に飛び降りたら転倒した。立ち上がって逃げようとすると、二張りの米軍テントが目に入り、そこで捕らえられて野国の収容所へ送られた、と後で聞いた。
 私は、足は腫れているし、到底逃げられるものではないと観念したが、米兵が逃げた三人を追いかけていったので、前に立っているクニブンギー(九年母木)に攀(よ)じ登ってジーッとしていた。
 やがて帰って来た米兵は銃で※※の畜舎のファーガラー(砂糖きびの枯葉、葉殻)を引っ掻き回していたが、中に誰もいないことを確かめると、何やら大声で叫びながら去って行った。
 夕方になると米兵たちは再び捜索を開始し、とうとう※※、※※、※※の家に火をかけた。その間中じっと樹上に潜んで米兵の様子をうかがっていたが、尿意は襲ってくるので、その時は一物をクニブンギーの幹に当ておもむろに尿を流した。
 夜になると※※の竹薮に移り、そこで八日間も過ごした。昼は藪に潜み、夜は出て食料をあさり、防空壕で煮て食べた。
 八日目の夕方、食料を探しに出掛けると玉城※※さんに出会った。前兼久で離れ離れになった人である。こうしてまた一週間過ぎた頃、※※知花※※(渡慶次)と玉城※※が※※の井戸の傍らに居るのを見かけた。四人で※※入口から渡慶次の洞窟へ入った。四、五日すると瀬名波の人が三人きた。こうして七人で半年も過ごしたのである。
 初めは芋を掘って食べていたが段々大胆になり、行動範囲も広くなっていった。
 瀬名波の集落跡には米軍のゴミ捨て場があり、そこで缶詰を拾って来たし、山羊は四、五日一頭のわりで屠って食べ、油はランプの灯油とした。鶏を捕らえることもあった。
 煮炊きする煙は渡慶次の※※新垣※※の井戸から立ち上ったようである。
 やがて近隣の畑が大分荒らされていることに気がついた。芋が掘り取られて段々無くなっていく。昼間聞こえるのは飛行機の爆音だけで状況は全く不明である。芋畑荒らしはてっきり米兵の仕業だと思った。それからは洞窟に入るのにも後ずさりして、手で足跡を消すようにも努めた。
 軍服は捨て、着物を着けていたが、それは防空壕を探すとあちらこちらに残っていた。
 もっとも困ったことはマッチがなくなったことであった。その後は枯れ木を集めて燃やし続け、火を絶やさないように交代で番をした。
 玉城※※(儀間)は石川から越境して芋取りに来ていた(当時は居住地以外の地への通行は厳禁であったが)。
 渡慶次の洞窟には米軍上陸前いろいろな物資が運び込まれていたことを知っていた。そのような物資を手に入れようと洞窟に忍び込むと、そこで終戦も知らずに籠っていた七人に出会い吃驚(きっきょう)した。十二月十二日のことであった。知花※※の長男も次男も一緒に来ていたので引き合わせた。
 こうして事情を知らせ、石川に行く決心をさせた。
 身内の者が居るのはそこに引き取らせ、それ以外は山内※※(渡慶次)の世話になった。
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