知花※※氏の派遣を伝える当時の新聞記事から
(『読谷村史戦前新聞集成下巻』より)
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私は、当時古堅小学校の専科(農業)訓導であったが、満州開拓勤労報国隊の一員として満州へ派遣された。報国隊という名であるが、実際には満州(現中国東北部)の邦人入植地を視察し、現地体験もさせる派遣団で、満州開拓の進展に資するための奉仕団、「報告隊」であった。
沖縄県からの団員一二〇人で中隊編成をし、中隊長は県庁職員が当たった。小隊は中頭、島尻、国頭の三つに分け、私は第一小隊長となった。
昭和十四年五月、茨城県の内原訓練所へ入所して一か月の訓練を受けた。訓練中、特に注意されたことは健康第一で無事責務を果たすということで、腹巻は絶対忘れるなと言われた。
私たち第一小隊の視察は、北学田入植地であった。ここは満州国北部で、福島県出身者の開拓団が入植し、二年ぐらい経っていた。宿舎は長屋のようになっており、共同生活を行っていた。畑も共同耕作である。
主要栽培作物は大豆である。土地は肥沃でふわふわしており、一筋の畝(うね)が一里を越え、畝幅は四、五尺もある。
そこに豆を播くのであるが、背に一斗袋を背負い、その底は漏斗(ろうと)状に絞られ、下端は管になっている。その管を棒で叩くと豆が出る仕掛けになっている。
ポンポン叩きながら一つの畝に播き終わると、午前は終わる。昼食を済ますと他の畝に移る。播き終わって元の所に返ってくると一日は終わる。四〇人で八〇畝播種(せはしゅ)した。
大豆は背丈程にも伸び、一株から六合の収穫があるという。それにしてもこれ程の広大な土地を鍬と馬耕だけでよくも耕しているものと感心する。
こうした中で開拓団の生活は思いのほかルーズな面もあった。広大な土地に来て大陸的な性向を帯びたのか、心のしまりがない。また蝿が多く不潔なことには閉口した。
行政組織では現地の人を知事に立てているが、高級官僚は日本人が占めている。
ここでは三か月過ごし、ハルピンへ移った。