第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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新崎※※(喜名・女性)明治四十年生

避難地へ向かう

 姑(七十五歳)は鶏を食べた後、足に鶏の小骨が刺さり避難地への歩行がままならない。
 隣近所の人に促されてクシマの壕を一家揃って出たけれども、姑が激しい苦痛を訴えたのでやむなく引き返した。
 部落の人々の多くはすでに山原に出発して、残りは少ない。
 早く疎開せよとの命令で再び壕を出たところ、金城※※が荷馬車を引いて来て、一緒に行こうと言ってくれたので力を得て出発することになった。
 トーマーミー(蚕豆)を少しばかり包み、衣類を抱えて出発した。
 荷馬車は荷を満載しているので、足に怪我をしている人でも乗せることは出来なかった。
 姑をかばい、二人の子ども(※※十歳、※※七歳)を急きたてて馬車の後を追った。
 学校はすでに焼け、※※の家は類焼し、自分の家や※※もすでに灰燼(かいじん)に帰していた。
 二〇キロの道は弾痕だらけでガタガタ揺れる馬車につかまり、歩き続け、やっと瀬良垣に着いた。その後、馬車は進めなくなった。

置き去り

 町田※※(牧原)の親戚の家に荷物を預けて橋の下に一日中潜んでいた。
 いざ出発という段になって姑がどうしても歩けないと言う。仕方なく、「では後で迎えに来るから」と、姑を橋の下に残し、二人の子どもたちと国頭村へ向かった。
 道中、姑のことが気になり幾度も引き返そうとしたが、子ども連れではどうにもならなかった。
 辺土名に着いたら姑を連れ戻すため、子ども二人を知人に託して引き返した。
 トンネルの所に達すると兵隊に止められ、南に行くことを禁じられた。米軍が迫って来ていると言うのである。それからは老人の死の話が伝わると、姑ではないかと思い、いろいろ訊きただした。本当に辛い日々だった。

米軍に収容される

 米軍接近とともに奥間の避難地から山に逃げ込んだ。それからは地元の人たちと共に東村に出て久志に回り、名護は許田の山奥に落ち着いた。
 芋取りに行き、川を渡る時荷物を落とし、思わず引いていた下の子の手を離して三メートルも流したことがあった。
 ある晩、※※は残し、下の子(※※)を連れて本部(もとぶ)近くまで芋掘りに出掛けた。実はこんな小さな子を連れて行くのは大変だから姉と残っているようにと、いくら宥(なだ)めても聞き分けが無く、とうとうついて来たのである。必死について来ただけにこの子は驚くほど川の中、藪の中を遅れまいと歩いていた。
 帰りに、名護で巡査に捕まった。もう一人子どもがいることを告げると連れて来いと言った。その巡査は日本時代の警官ではなく、占領下のCP(民警官)で、私たち母子を田井等の収容所へ連行した。
 田井等の収容所代表が私たちのことを知っていて、お前のお母さんと兄さんは仲尾次におり、兄さんは巡査していると教えてくれた。それで、私たちは仲尾次に送られるべきものをお願いして、仲尾次に変更してもらい、実母渡久山※※と兄※※に会った。

姑を連れ戻しに行き、再び逮捕される

 しばらくすると姑が金武村中川に居ることが分かった。姑は喜名の安里一家と暮らしていた。瀬良垣で米軍に収容されて漢那に移され、中川で暮らしていたのである。
 姑を連れに行こうにも、他地区への通行は米軍によって厳禁されており、越境者は金網(監獄)に収監されることになっていた。
 北谷村桑江の人に連れられ、巡査の目を盗んで仲尾次を抜けた。
 姑を連れ出してある川のほとりまで来た。水深がかなりありそうなので、一旦荷物を対岸に渡し、姑や子どもたちを連れに戻ろうとした時、巡査に追われてきた女が、私が荷を置いた対岸で捕らえられた。そしてそこに置いてあった私の荷物を持たされ連行された。
 陰で様子をうかがっていた私は、自分が無断越境者であることも忘れて、荷物を奪い返そうとすると、逮捕された。一週間金網(監獄)に入れられ、久志に送られた。久志では翁長※※(後に吉田に改正、喜名出身)が教員をしていた。
 すきを見て逃げ出し、宜野座警察署長喜世川※※(嘉手納出身)を頼って行った。喜世川は私の義叔父に当たる。
 喜世川は米軍に依頼して私たち一家の者を田井等に送ってくれた。田井等からは仲尾次に連行され、私は金網に収監された。
 金網の看守は皮肉にも兄の渡久山※※であった。彼は全く知らんふりを通した。同じ金網に収容された人は臨月の妊婦で、彼女は産婆を訪ねていくところを捕らえられたというが、間もなく私と一緒に釈放された。後で聞くと、その事は看守の個人的判断の結果だったという。そのような時代でもあったのである。
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