第六章 証言記録


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座談会1 元役場職員座談会

戦前の読谷山村役場
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【出席者】(第一回、第二回出席者一覧)
町田※※(牧原)  明治四十一年生
長浜※※(長浜)  明治四十一年生
津波古※※(大湾) 明治三十六年生
波平※※(座喜味) 大正二年生
上地※※(儀間)  大正十四年生
島袋※※(座喜味) 大正十二年生
真玉橋※※(喜名) 大正四年生
喜友名※※(座喜味)大正十二年生
真栄田※※(座喜味)大正十一年生
屋良※※(長田)  昭和二年生
 司会 長浜※※・上原※※
 役場側出席者
  町田※※  棚原※※
旧議会棟、議員控え室で行われた座談会
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読谷村元役場職員名簿〔一九四四年(昭和十九)末現在〕
1 村長     知花清  (高志保)
2 助役     伊波※※ (楚辺)
3 収入役    山城※※ (座喜味)
4 書記庶務主任 宮本※※ (渡具知)
5 書記会計主任 玉城※※ (喜名)
6 書記援護主任 与久田※※(宇座)
7 書記戸籍主任 町田※※ (牧原)
8 書記勧業主任 上地※※ (楚辺)
9 書記兵事主任 上地※※ (波平)
10 書記証明主事 真玉橋※※(喜名)
11 書記国税主任 松田※※ (楚辺)
12 書記県税主任 大城※※ (高志保)
13 書記労務主任 儀間※※ (儀間)
14 書記馬匹(ばひつ)係 松田※※(高志保)
15 書記戸籍係  長浜※※ (長浜)
16 書記税務係  喜友名※※(座喜味・旧姓棚原)
17 書記兵事係  屋良※※ (長田・旧姓国吉)
18 書記     波平※※ (古堅)
19 書記税務係  真栄田※※(座喜味)
20 書記庶務係  上地※※ (儀間)
21 書記庶務係  上地※※ (儀間)
22 書記     知花※※ (波平)
23 林業技手   喜友名※※(喜名)
24 林業技手   嶋田※※ (波平・旧姓島袋三梅)
25 林業技手   知花※※ (高志保)
26 農業技手   山城※※ (渡慶次)
27 仕丁     島袋※※ (座喜味)
28 仕丁     仲村渠※※(瀬名波)
29 給仕     新垣※※ (伊良皆)

1 駐在農業技手   比嘉※※ (高志保)
2 国民健康保健組合 伊波※※ (伊良皆)
3 国民健康保健組合 棚原※※ (波平・旧姓比嘉)
4 保健婦      宇座※※ (座喜味・旧姓松田)
5 保健婦      比嘉※※ (楚辺)
6 銃後奉公会    渡久山※※(比謝矼)
昭和19年頃の読谷山村役場配置図(町田※※氏作成)
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給料額

町田※※さんの例

 一九四二年(昭和十七)、四三年頃戦時体制に入ってからは、家族手当・臨時手当・戦時手当等がついた。町田さんの基本給は六一円。家族手当てが五名分一五円、臨時手当や戦時手当を入れると九〇円ぐらいになった。そういう手当がついて勤務年数に対する給料より多くなった。一九三四年(昭和九)の初任給は、基本給が二五円。

各職員の職務内容と当時の思い出

司会  一九四四年(昭和十九)当時二九名が役場職員として働いていらっしゃって、その中で今日は九名の方に集まって頂きました(一覧参照)。まずそれぞれの当時の仕事内容をお話し頂きたいと思います。
発言する町田※※さん(左)、隣りは波平※※さん(右)
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町田  私は戸籍の担当でした。戸籍事務は村の一般事務から切り離され、戸籍吏ということで、村長の直属業務でした。主に裁判所関係と戸籍謄本・抄本等の記載が仕事でした。
 今はコピーですぐできますが、その当時は一枚一枚書くんですよね。
 兵事係は出征兵士等がいるとすぐ、戸籍謄本を添付して報告しなければいけないという事で、私たち戸籍係は戸籍謄本をうんと書きました。しかも事務は兵事係が二人、戸籍係も二人しかいませんから。
 もうひとつには、「寄留」というのがあって今の住民謄本みたいなものです。「入寄留」というのは別の市町村から(読谷山)村に入ってくると「寄留届け」を出し、本籍簿ではなく「寄留簿」があってそれに記入した。「出寄留届け」というのもあって、それは村から紡績などで本土あたりに行く時はそこで寄留届けを出しますから、向こうから出寄留ということで来るんです。「占出寄留簿」というのもありましたが、それまで係に指示することができませんでした。戸籍謄本の交付しか出来ませんでした。
 ですから、兵事に関することが多い場合は、住民から「戸籍謄本を下さい」とか言われても「きょうは出来ませんから明日来て下さい」と帰すような時もありました。どうしても書いていては間に合わないんですね。戸籍法に従って裁判所関係もありました。毎月の出生届け、婚姻届け等は翌月の一〇日までに全部裁判所に送らなければいけないので忙しかった。
司会  人事異動はありませんでしたか。
町田  ずっと戸籍係でした。戦争になったら兵事の関係で戸籍(係)は最後まで残らなければならなかった。
 税務の方はですね、「土地台帳」、「名寄せ帳」というのがありますよ。それを一月一日現在でですね、県の方に報告しないといけない。全部、個人個人別々に。その時は係だけでは間に合わないのでみんなで残ってやりました。
司会  町田さんどうもありがとうございました。じゃあ次に同じ戸籍係で頑張って頂いた長浜※※さんお願いします。
長浜  私は戸籍係としては謄本、抄本書きに追われて、一日に何十枚も書いたがその頃は若かったからできたが、今だったらその仕事はできませんな。何から何まで戸籍の謄・抄本が必要だった。兵隊に行くのにも、徴用にも、「軍人補助」(給付)を受ける場合にもね。全部戸籍係としての仕事しか当時はできなかった。我々が役場にいて一番悲しいことは、召集令状が来てその召集令状を持って行く場合、その家の若い母親とかおじいさんたちが涙を流して「ワッターチネーヤ、チャーナイガヤー(私たちの家庭はどうなるんだろう)」と言う、その有り様を見る場合にはですね、日本では戦争は勝つといってはりきっているんですが、銃後の守りとしては、かわいそうで。共に泣く時もありましたよ。
また喜んで「ああそうですか、名誉の召集令状が来た」と言う若い連中もおりましたが、それでも心の中では泣いていたかも知れません。私は召集令状をたくさん持って行きましたので。
 また、夜の伝令はきつかったですね。戦争が始まったら、伝令は毎晩のようにあったわけですね。
司会  じゃあ次に真玉橋さんお願いします。
真玉橋 私はですね、一九三九年(昭和十四)の十月に役場に入って、一九四五年(昭和二十)の二月まで役場にいました。町田さんと一緒に戸籍と、受付の所で諸証明の発行、それから庶務のお手伝いとして、現行法規の加除、それと嘱託で婦人会事務をしていました。
 現行法規の加除等は静かでないとできませんので、日曜日に出勤してやっていました。
 婦人会事務は棚原さんが婦人会長で、各字からお一人ずつ区長がいらっしゃいましたので、その事務を私が嘱託でやっていました。一〇円の嘱託料を貰って、集まりなんかは、中部地区の集まりは普天間でありましたからね、朝七時頃から起きて行って、一日がかりで集まりにも行って。役場事務もやりながら、大変忙しい思いをしながらやっていました。
 それに、空襲で焼け出された家に、慰問品を配ったり。忙しくて忙しくてもう大変な忙しさでした。それだけしか覚えていません。いろいろやりましたが、楽しい思い出はないですね。忙しい思い出しかないですね。人数が足りませんので、いろいろ加勢してもらえるものでもないし、自分一人でやらなければいけませんので、そういうふうにやってきましたので、その他のことは頭にありません。自分の仕事だけです。
司会  諸証明は印鑑証明も含んでいるわけですか。
真玉橋  はい。印鑑証明・身元証明等いろいろな証明全部です。身元証明等は犯罪等に関することを調べますでしょ。そんなのを照合してですね。特にいくさ前だから内地にいる子供達を呼び寄せるためにですね、偽の証明等も出てくるんですよ。病気だからとか何とかかんとか。それも調べないといけないし、印鑑証明・身元証明等は受付の所で一人でやっていました。
司会  次は津波古※※さん、担当は何でしたか。
津波古  私達はですね、読谷村農会ですね。
司会  農業会ですか。
津波古 農業会ではなくて村の農会。波平さんも一緒でしたよね。一九四〇年(昭和十五)に採用されたと思いますが、あの時の農会の職員はですね、長浜の仲村渠※※さん、比嘉※※さん、波平※※さん、山城※※さんと私の五名でした。
 非常に印象に残っているのは、一九四四年(昭和十九)十月空襲の後、私は三名の新兵を引率して那覇の上山国民学校に行ったんですよ。夜中の十二時に集合してね、夜通し歩いて那覇まで行って、那覇に着くまでには朝の八時になっていたんです。
 十・十空襲後で那覇は家一つもありませんよ。上山国民学校はちょっとだけ残っていました。新兵を隊長に引き渡して、あの時分からグラマンという飛行機が飛んでいて、それが近づいてくると、木の下に隠れ隠れしながら帰って来た思い出は忘れることはできませんね。あの時は新兵は現地入営、沖縄に配置だったですよ。どこでも役場職員が引率して連れて行ったと思いますよ。
司会  波平※※さんと津波古※※さんは農会の職員でいらしたわけですね。
津波古 波平※※さんは技手ですね。
波平  技手の国吉※※さんが徴用されたので、私は代わりに入りました。
左から津波古※※さん、長浜※※さん
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司会  農会のお仕事の主な内容は。
津波古 村農会の専任職として採用され、農会費というのがあるんですよね、その農会費は各村(字)の土地所有者から徴収して、その会費は戸数割でいくら、土地の反ごとに、地価にいくらというふうに割り算してね、各戸から徴収して、経費は原山勝負が年二回ありましたよね、そういうものに予算を使っていましたね。
 農会費徴収の場合、大変でした。徴収金はちょっとだが那覇まで行ったことがありました。読谷の人が那覇にいるものだから、徴収しに。北谷にも行きましたし、読谷に土地をもっている人の所に徴収に行くわけです。
司会  じゃあ津波古さんの場合には農会書記として会費の徴収が主な仕事だったわけですね。
津波古 それと原山勝負の支出関係の仕事ですね。年二回の。
司会  喜友名さんのお仕事は
喜友名 税務と会計が一緒でした。
司会  現在でいう出納室みたいなものですか。
喜友名 そうですね。飛行場の接収で、とにかく忙しくて忙しくて、その頃に真栄田さんは役場に入ったんじゃない。
真栄田 私は一九四四年(昭和十九)十・十空襲の後からです。だから(役場には)半か年ぐらいしかいませんでした。男の方が召集されて人手が足りないということで、私たち女性もお国のご奉公というふうなことで。
喜友名 私は一九四一年(昭和十六)に入っています。
司会  お仕事の内容は税務。
真栄田 はい。
喜友名 もう、夜中まで、忙しかったです。土地が接収されたものだから、それにともなっての…。
司会  土地の接収と税とはどういう関係にあるわけですか。
喜友名 軍からどれだけの土地が要るというふうに来ますね。それと税務署との関係ですね。
司会  接収された分は土地の税金が免除になるわけですか。
喜友名 そうです。
司会  島袋さんはどういったお仕事でしたか。
中央、島袋※※さん
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島袋  私は一九四三年(昭和十八)に仕丁として就職して、もう一人は瀬名波の仲村渠※※君でした。仕丁の仕事と申しますとまず宿直当番ですな。当番して朝起きて、軽い掃除をして、そして午前中はだいたい、謄写板、刷り物ですね。各職員の方々が持ってくる物がありますからね。それを終わると午後は各部落廻りですね。自転車で、二一の部落を午後から全部廻るんですね。それを仲村渠君と一日越し交代でやりました。今日は私、明日は※※というふうにしたんです。
 そして、養蚕室には日本軍もいましたから仕事も多いわけですね。一番多いのがヒージャークルサーなんですよ(笑い)。これはもう専門になりましたね。大政翼賛会の歓待でヒージャー(山羊)を潰して出すんですよね、兵隊に。
司会  次に屋良さん、当時兵事係で役場にいらしたわけですね。
屋良  あの時の主任の方が与久田※※さんといって、非常に頭のきれる厳しい方だったんです。宇座の方で。この方は亡くなってしまって残念なんですが、あの時私は満十六歳、臨時雇い人として就職しました。右も左もわからない状態で、一九四二年(昭和十七)ですけどね。
 召集令状というのは、この戦争が激しくなりましてからは頻繁に来るわけですね。それを受けるというのはもう兵事係だけじゃできなかったわけです。皆さんが手伝わなければいけない状態でした。
 召集令状が来ると、自分自身の仕事をなげうってでも集まるわけです。その召集令状を受けた主任はすぐ各字に発送の準備ですね。発送はこれを持って行くわけですからね、いちはやく。何時何分に受けたら、該当者は沖縄在住であるかそれとも県外在住であるかということを確認し発送する。届けたら受領印を押した封筒をまた持って来ないといけないんですね。そうすると主任がいない時は、私一人でこれをやらないといけなかったんですね。司令部に電話で報告しないといけないし、何分受け、発送何時何分、在住が何名、うち何名は電報をうったということで。電報もうたないといけないんですよ。「ショウシュウレイジョウウク ナンガツ ナンニチ ナンジ ナンプン セイブダイナンブタイ ニュウタイセヨ ヨミタンソンチョウ」とか電報をうったんですよ。係は二人しかいませんのでね。電文をうったり、司令部に報告したり、兵事主任は那覇の波止場まで見送るのも毎日のようでしたがそんなにして見送った兵士達のことを思うと心が痛みます。主任がいない時は引率していきますから、那覇の港に。
 結局は私たちも戸籍をやっているようなもので、兵隊が出征すれば全部、戸籍謄本を書く、抄本を書く。それから勲章も山ほど来たんですよ。これを配る暇はないんですね。
 一応これを名簿に載せて公文書を出して(該当者を)集めて配らなければいけないのに、配らないうちにたくさん来てですね、防空壕に積んであってそのままになった筈ですけど。
 ただひとつだけ私の心に残っていることがあるんですよ。最後の徴兵検査なんですけど、主任と私は農林学校に行ったんですね。その時に検査官が「この徴兵検査は恐らく最後の徴兵検査です」とおっしゃったんです。
 その時にギクッとしてね、何で最後の検査なのかなと思ってですね、その時の言葉が忘れられません。その時農林生もみんな聞いているんです。
司会 次に波平さん、お話し頂きたいと思います。
波平  ある日、いくさはもう目の前に来ているから、平時事務は打ち切って、戦時事務に切り替えなさいと村長の一声だったですよ。それから兵隊がどんどん入ってきて、私は供出係になった。
 各字を回ってカンダバー(芋の葉)等を集めた。宇座とか楚辺とか大きな部落の供出の場合は楽しかった。たくさん集まるから。小さい部落の供出の場合少なくてね、あんまりおもしろくなかった。
 あの時代、部隊で一番御馳走があったのは、海軍巌部隊ね。一番無いのは高射砲部隊。お正月に高射砲部隊の炊事場に行ったら、魚ひとつずつ。私も一つ貰ったがね。あの当時お正月に餅をついたのは海軍の巌部隊と渡慶次国民学校にいた部隊。それから、毎日役場に通う時、飛行場はどんどん拡張するから怖くなって、本当は村道から行くべきだが、今のトーガーね、ハイランドのあそこから通った。空襲が怖いから。空襲は飛行場を目掛けてくるでしょう。行く場合に空襲にあって、橋の下にかがんだこともあるし、私はたえず各部落回りだから、親志、長田に行く場合は山から。大きい道は通らずに。飛行場のそばは空襲が怖いから。家に帰る場合も今の喜名学校からハイランドを回って帰った。そして、学問がないから先輩が怖いわけさ、殊に村長は怖かった。
 役場に入った直に炊事場で女の人達と一緒に昼食を食べていたら「波平来なさい」と言われてね、はんごうを持っていたさ、たくさん食べると笑われてね。(笑い)
 あの当時の淋しさといったらね、木の葉が落ちるのまで聞こえた、しーんとして。兵隊も山に避難して人もいないさ。昼、話すのは※※ちゃんと松田※※さんと私、それから波平※※、他には誰もいないんですよ。役場に入って怖かったのは、電話。使ったこともないものだから。何が来るかというと空襲警報が来るわけ。もうひとつ怖かったのは日誌を書くこと。字もあんまり書かないんだから。もう一つは各字を廻っての供出割り当ての査定。議員と私とで字を廻って査定をするんだが、間違ったりしてね。そのような難しい仕事を私にさせたのが悪いんだなんてね。一番印象深いのは酒が多かった。ヒージャー会が多かった。

役場内への軍隊駐屯について

司会  「読谷村への部隊配備について」覚えていらっしゃることをお話して頂きたいと思います。いつ、どの部隊が、どこに配置されたのか覚えていらっしゃる分を語って頂きたいんですが。読谷村に最初に入った部隊は、どの部隊でしょうか。役場に、部隊が入るからという通知はありましたか。
町田  そういうことはなかったんじゃないですかね。
左から、喜友名※※さん、屋良※※さん、真栄田※※さん
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屋良  ※※さんは一九四四年(昭和十九)三月頃と証言しているんですよね。電話で聞いたんですが彼女は会議室にいましたでしょ。この会議室は全部海軍にとられたと言っていました。そして「村長さんは追い出されたけど、どこへ行ったかは覚えていない」と言っていました。会議室は重要会議室になったそうです。
真玉橋 ※※さんはあの頃給仕だったね。
長浜  天野少尉が村長に「戦はすぐそこまで来ているのを知っているか」と言って、テーブルもイスも全部持って行った。
喜友名 あの人はンジャラー(意地悪)だったね。
長浜  宿直なんかをしていると、十二時項から戸を叩いて、真夜中なので寝ていて、なかなか起きないと自分で入って来て怒ったりして、一度は私も蹴られた。

供出について

屋良  棚原※※さんの証言ですけど、供出の係は、津波古さんが主にやっていらして、あの方がいらっしゃるとよくわかると思うんですが…。
波平  直接は私が、各字をまわって査定して集めた。
屋良  ※※さんに「私が覚えている分は話してきてちょうだい」と言われたんですが、芋とか大豆とか、野菜、卵などを集めた。大豆はもやし作りに使われたり、卵は一般兵にじゃなくて特攻隊員用、特攻隊にだけあげたそうです。それから味噌、馬草(まぐさ)まで供出したそうです。経理部の人は会議室を行ったり来たり、しょっちゅう出入りしていたので「あんなにたくさんの兵隊が出入りしていたけど、何をしていたの」と聞いたら、ほとんど供出関係で、各部隊からそれを取りに来ていたらしいんですよね。各字に車を出して取ってもらったとか言っていました。卵だけは印象的と言っていました。特攻隊員用だったと。
長浜  卵の供出はほとんどなかったよ。
真玉橋 供出はほとんど婦人会を主体にしていましたよね。
喜友名 役場に集めるというのは特別だったと思うよ。
司会  今屋良さんの方から兵隊に対する供出の話が出たんですが、波平さんが直接の担当者でいらしたということですので、その状況をお話しして頂けませんか。いくら出しなさいと命令があったのか、それとも自発的に…。
喜友名 (割当は)ありましたよ。もう強制的ですよ。味噌から何からいろんなもの。
町田  役場もそれ(供出)に力を入れていましたよ。
上地  各部落から集めて、馬車に積んで役場に持って行っていました。(上地※※氏は、一九四四年十月頃に応召。それまで役場の仕丁であった。)
波平  一、二回は役場の庭に各字から全部持って来て、兵隊も一緒に取りあって、私も割り振りがわからずにだいたいで分けたら、後から兵隊が私に、本当は部隊の人数を聞いてそれに応じて分けるんだと教えてくれたが、部隊の人数は秘密で教えてくれなかった。
 その後からは各部落に回って、今日は楚辺と喜名、明日は波平と座喜味というふうに割当した。
真玉橋 私は、軍の車で県庁に持って行ったんですよ。かんざし類、貴金属とか毛皮、いろんなものを献納しました。
上地  蚊帳のみみ(鐶(かん))まで取られましたよ。
司会  これは婦人会が中心になってやるんですか。
真玉橋 はい。ボロ布なども機械類を拭いたりするので供出したんです。
波平  綱の供出もなかったかね。
屋良  ありましたよ。藁綱。
波平  山羊の皮は誰が扱った。
長浜  あれは区長会で村長が直接割当てて、どこの字が何枚というふうにした。牛皮や豚皮もあったよ。
司会  この皮は何に使うんですか。
波平  靴などを作ったと思う。
長浜  (供出で)一番多いのはカンダバー(イモの葉)だった。
波平  供出物がたくさん集まると嬉しかった。配給するのが少ないと困った。
司会  綱は防空壕の棚を作るためにですか。
屋良  何にでも使える。

演習について

長浜   演習をする場合はちゃんと演習通知が役場に来た。
司会   演習場所はどこですか。
長浜   北飛行場とか。
屋良   晩になると婦人の竹槍訓練というのがあったんです。各字で。白人は青い目をしているから夜は目が見えないとか言って、一人が一人ずつ殺せば何でもないと言って、訓練しました。
真玉橋 一生懸命やったよ。竹槍訓練も。
司会   竹槍訓練の話が出たんですが、防火訓練もしていらっしゃいますよね。その時の状況を教えて頂けませんか。
真玉橋 バケツリレーです。
司会   これは字ごとにですか。
真玉橋 字ごとです。
上地   一列に並んで。
司会   これは婦人会が中心ですね。
真玉橋 そうです。
波平   はじめは警防団が中心で、後から婦人会が中心になった。
真玉橋 訓練はしているものだから、十・十空襲の時、喜名が真っ先に焼けたものだから、みんなでバケツを持って出て、喜名に大きい池がありましてね。今の農協がある所、あっちからみんなでリレーして、公民館の近くが先に焼けたものだから、バケツリレーしたんですよ。あっちは鎮火したものだから、めいめい家に帰ったら、帰るまでには自分の家は燃えているんですよ。衣類だけは箪笥から出せるだけは出しましたが、グラグラして怖くて半分も出せなかったです。
波平   それから、玄関に火叩きを作っておくこと、水を置くこと、砂を置くことが決められていたよ
司会   それが訓練の基本的な備えだったわけですね。
波平   火叩きというのは棒の先にボロ布を付けたもの。
上地   砂はバケツに入れておいた。焼夷弾が落ちたら、砂をかけて火を消すということで。
真玉橋 焼夷弾というのは聞いたこともないし(戦争は)兵隊がするものだと思って、何の知識もないんですよね。

部隊の慰問

長浜   役場から慰問に行った場合もあったよ。部隊に。
波平   慰問会に我々も行った。軍のバスで行った。
真玉橋 海軍の巌部隊でね、演芸大会があったんですよ。
司会   これは部隊主催ですか。
真玉橋 部隊主催で招待を受けて行きましたらね、兵隊はいろいろな職種の人が来ますから演芸の達者な人、また俳優なんかも来ますから、とても賑やかで、珍しい演芸も見せてもらいました。ご馳走もいっぱいあって。
屋良   上手でしたよね。
波平   太鼓の代わりにそうめん箱をひっくり返して叩いたりしていた。
真玉橋 各県の芸能も出て、二回ぐらい行きましたね。
司会   これは兵隊も一緒に演じるわけですね。
真玉橋 兵隊がやって、招待を受けて見に行くわけです。
司会   ※※さんがおっしゃるのは…。
長浜   むこうに慰問にも行ったよ。それもあったんだが。
司会   部隊内の演芸大会と役場から慰問に行くというのもあったんですね。これは場所は一か所ですか。それともあちこちに、もちまわりがあったんですか。
長浜   私が行った所は喜名の後ろです。
真玉橋 やっぱり海軍の巌部隊。
上地   海軍と陸軍とでは食べ物も段違いですよ。
屋良   巌部隊は豊かでしたよね。
喜友名 役場に来る時でも飴を持って来たりして。
長浜   役場内でも海軍と陸軍との喧嘩もあった。

読谷村における壕の設置について

司会   一九四四年(昭和十九)の三月から部隊が配置されますけど、各宿舎に入ると同時に、塹壕掘りがあちこちで行われたようですけど、それを役場から指示していったのかどうか、そこら辺の状況をお話して頂きたいと思います。
喜友名 それは無いでしょうね。兵隊がみんな監督していましたから。
長浜   あれは軍の方が、自分でやったわけですよ。
司会   役場は通さないで軍の方がやっているわけですか。村民も関わっているんですけれども、どういう関わり方ですか。
喜友名・上地 徴用されたんじゃないですか。
長浜   徴用はされたんだが、場所の選定等は軍が。役場とは関係ない。
波平   私は兵隊に連れられて、飛行場の楚辺の上の方に、墓を確認しに行った。ここは誰の墓だということを。また座喜味の西側の上地の後ろだが、壕を掘るために、そこにはたんぼがあったので、誰の田か確認に行った。
司会   わかりました。家族壕は役場で指導したんですか。
喜友名 講習を受けました。
司会   これは役場とか警防団から掘るようにという指導をなさったわけですか。
長浜   役場や警防団の指導を受けて、めいめいがいいと思うところに掘っただけです。
司会   戦前警防団は非常に重大な役目をもっていまして、あらゆる問題について先頭にたって指導を行うという立場にあったわけですね。
町田   そうですね。
司会   役場職員には、防毒マスクが支給されたと聞いたのですが、それは役場職員だけ支給されたんですか。
喜友名 そうです。役場職員は兵隊と同じだからといってね。だけど私は兵隊に返した。私は三月二十八日まで役場に行ったので、その日に兵隊に返した。
真玉橋 私は二十九日まで行ったと思う。私はそのまま持って疎開した。
屋良   私はもらった覚えがない。

徴用について

左から、真玉橋※※さん、喜友名※※さん、屋良※※さん
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司会   村内での徴用は各字何名と割当があったんですか、それとも年齢で何歳以上とか…。
喜友名 後からは強制的だったんですって。最近聞きましたけどね。
町田   徴用は年齢的にも、小学校を卒業して、働けるのはほとんど徴用ですよ。
屋良   十四、五(歳)から。若い人はいないから年寄り、子ども。
町田   中学校・農林学校は軍の方に。
司会   これは役場を通さないで、いきなり軍を通してその作業が入っていったわけですね。
喜友名 役場から、一応名簿は作りますでしょ。

飛行場用地の収容について

司会   土地所有者の名簿はありましたか。
喜友名 はい。字ごとの所有者の名簿を作ってやっていたと思います。はっきり覚えていると良かったんですが。
司会   接収もそうですけど、軍だけで行ったのか、それとも役場もその業務をさせられたのか、そこら辺をお聞きしておきたいと思いまして。
波平   一応は役場を通したはずよ。
町田   今さっき申し上げましたように接収問題についてもほとんど村の方でですね。
波平   学校に集まって、警察の偉い人達も来て、地主が集まったわけでしょ。
真玉橋 直接軍ではないはずですよ。役場を通してですね、調査ものとかは役場の方がいらして、一緒になって家庭を訪問して調査もやっていました。
喜友名 あの時に図面を広げて、天野少尉なんかも来ましてね、将校達も来て、ここからここまでというふうに赤い印をしていたのは覚えています。それから書き出して、この地主は誰というふうに書き出して、それから連絡して集まってもらって、そういうことまでは覚えています。
司会   喜友名さん達がその名簿を作ったんですか。
喜友名 書き出して、名簿を作って、赤い印をつけて、私達は仕事をさせられる方でしょ、主任がいるから。松田※※さんなんかが良くわかると思う。
波平   喜友名さん達が名簿を出したから地主の人達は学校に集められたわけでしょ。
喜友名 そういうことでしょう。
波平   最初は赤旗が立った。私は何回も地主会で話しましたが、はじめはどこそこに赤旗が立っているといって字中話題になった。どこの集まりに行っても「私(の土地)は免れた」とか「私の土地は境である」とかの話題だった。飛行場になるということもわからずに赤旗が立っているという話をしていた。
真玉橋 何月頃までに立ち退きしなさいと。
喜友名 それはありましたね。
町田   それがあったと思う。
喜友名 だから作物の保証金とかあんなのまで私達は。
町田   その事務にはタッチしていませんので。
真玉橋 立ち退きを命じられた地域内にはお墓もありますしね、墓を作って引っ越しもしないといけないし、家も引っ越さないといけないから騒動しましたよ。
司会   墓も新しく作られたわけですね。
真玉橋 はい。
喜友名 だからそういう人なんかは相談して、土地代は渡っているはずです。覚えていらっしゃるかどうかわかりませんが。ほとんどは凍結の感じだが、どこかに移転しなくちゃいけない人は、村長の証明をもらって土地代を少しもらって、みなさん土地を買ってね、移ったわけですよ。
真玉橋 立ち退き料、これもらわないと戦前お金ないですからね、お墓も作れませんよ。
長浜   土地代をもらったのはそんなにいないでしょう。
喜友名 だから、土地代は凍結されているような感じでしたよ。
真玉橋 家屋とかの移転はお金をもらって、移っていますよ。土地代は取ってないと思います。
司会   実際の建設の状況をもう少し知っておきたいなと思うんですけれども。
上地   ほとんど馬車とトロッコ。
馬車日計表(昭和19年4月下旬分)
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司会   軌道も敷かれていたんですか。
上地   そうそうレールを敷いてね。
長浜   飛行場内に。
上地   はい。つるはしで掘りおこして(トロッコに)積む人は積む人、押す人は押す人。
長浜   荷馬車一台で一日いくらでとか、支払いがあったようですよ。
司会   それは当時としては高い金額だったんですか。
喜友名 高いんじゃないですか。
上地   一日一台八円だったとか。
波平   五回しか運んでないのに六回とか水増しして多くもらおうとした人もいたようで、ユーレイ馬車と言いよったけどね。
司会   村民の徴用はどうですか、軍命令で徴用されたということですが、こういうのも役場の兵事係を通してあったんですか。
喜友名 兵事係ではないと思う。
波平   徴用は区長が。
上地   兵事係は兵事。
町田   儀間の儀間※※さんが労務主任をしていて、そういう徴用なんかは、もちろん兵事係との関係もありますが。
長浜   そういえば、労務動態調査というのがあったような覚えだね。
喜友名 そうですよ。
長浜   労務動態調査というのがあって、そこで検討して各区の区長を中心として、徴用するような格好になっていたんじゃないか。各字に馬車班長がいてね。登録ではないが、めいめい徴用に応じていたよ。私たちも出したよ。
「国民労務手帳」表紙
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司会   馬車を持っている人は徴用ということじゃなくて、働くという…。
長浜   徴用ということは流行語で、むこう(飛行場)で働くのはみんな徴用といっていた。馬車は個人で、めいめい行きたい方は出していいというふうなことで、徴用は徴用として各市町村から来るわけさ。あれは正式の徴用で、給料があったかどうかはわからない。
喜友名 長浜さん馬車税といってもありましたよ。(馬車税が)あったから登録されていたということじゃないですか。
波平   ウフ馬車とかハルカイムッチャー(農業用)にはかからなかった。
喜友名 自転車税というのもあったし。
司会   ウフ馬車というのは客馬車のことですか。
波平   いいえ。でも後からは、それにも税金があった。
司会   長浜さんがおっしゃるように、他市町村からも徴用を受けて北飛行場建設に従事した県民の方がいらっしゃるわけですよね。その方々は賃金も何も無しに働かされたのですか。
波平   賃金もらっているよ。
司会   どうですか真栄田さん、国場組は建設会社としてここに入っているわけですよね。そこに従事していらっしゃる方もいらっしゃいましたか、会社員として。
真栄田 はい。国場組の、あっちは建築部だから、資材係とか、労務。
司会   その会社の方々はもちろん会社から給料をもらうわけですよね。普通の一般の人は、どうでしたか。
真栄田 働いている人は賃金ありましたよ。
司会   徴用を受けたにしても賃金はあったわけですね。
真栄田 はい。兵隊と一緒のはもらえませんよ、国場組のだったらもらえますけど。
司会   普通はもらえないわけですね。
町田   国場組が請負してやっているから、賃金は支払いしたんじゃないですか。とにかく一般の作業の場合はですね、優先的に国家の何ですから、国場組が徴用という形をとらなければ、従業員が獲得できなかったので、徴用の形で需要を満たしたんじゃないかと思うんですが。
司会   じゃあ、飛行場建設はですね、先程申し上げましたけれど、報告書等も出ておりますし、直接役場は建設業務にはタッチしなかったということですね。次に、召集令状についてお話し願います。

召集令状

波平   ※※さんが召集令状の話をしたから思い出したが、私も非常に悲しいことがあった。都屋の屋号※※からは三人目の召集で、どんな気持ちで持って行くかとね。アカフダー(召集令状)を持っていったらワジャンカー(顔をしかめて)してね。
 あの家は、座喜味で一番兵隊に行った者が多かった。都屋も座喜味だったから。持って行きにくくてね。
司会   召集令状は県から届くのですか。
津波古 司令部から。
司会   令状に名前を書き入れるのは役場ですか。
喜友名 あっちからちゃんと記入されてきた。徴兵検査は終わっているから。登録されているから。
長浜   徴兵名簿が行っているから。
島袋   最後の場合には戦争が激しくなって整理がつかないと思うんですよね。あの部隊からもこの部隊からも私の所に令状が来る。別々の部隊から令状が来るわけですよね。だから私は令状が二つ来た。向こうの整理がついてないということですよね。兵隊に行っているのか家にいるのかわからんでだったと思うんですよ。最後のほうは混乱してしまっているからね。事務的にも混乱しているということですよ。
屋良   一九四三年(昭和十八)頃までは、村葬が頻繁にあったんですよ。村葬というのはね、あれだけ兵隊を送りますでしょう、それが白木の箱で帰って来るわけですね。村葬というのはそれは悲しい事ですよね。複雑な思い出が兵事の係としてはあります。村葬と召集令状、出征兵士を送るのと交互に、これは複雑な思いでした。

それぞれの体験―十・十空襲を中心に

司会   一九四四年(昭和十九)の十・十空襲以後の読谷山村の状況について、それぞれ覚えている分を語ってほしいと思います。
 十・十空襲の前後で大きく違った点というのはどの辺にあったのかということからまず入っていきたいんです。じゃあ長浜さんお願いします。
長浜   あの時代村長はこういうふうに話しておられました。字の懇談会等にいらっしゃる場合ですね「読谷飛行場ができたならば読谷は都になる」というふうなことを話しておられましたな。当時は兵隊でなければ人間でないというふうな一般村民の方がそういうふうな気持ちでありましたので、兵隊ということは神様というふうな印象がみんな、われわれ帝国国民はあったわけです。
 飛行場を接収された場合、金もあって、仕事もあって、荷馬車なんかも一回何円というふうにお金の雨が降るような格好で住民はみんな働いたわけですよ。老いも若きも馬車を駆って、飛行場で働いて金を儲けたということで、みんな喜んでいました。
 十・十空襲になったら、那覇からの避難民に読谷の婦人会が炊き出しをしたんですよね。
喜友名 役場吏員も全部総動員でしたね。おにぎりをつくって。
長浜   私は戸籍係でしたが、日本軍の演習があるとかいう場合には必ず軍から通知があったが、十・十空襲の場合にはそういうふうな警報も何もなかったわけですね。十・十空襲の朝ですが、既に長浜でも褌(ふんどし)一本で長浜のリーフ一帯に松を取ってきてハンマーで打ち付けて、米軍の海上トラックが来たら、それを阻止するというふうなことでやっていたんですが、友軍もわからないわけですな。私が友軍の所に行ったんですよ。行って「これは日本の飛行機か」と言ったら「日本の飛行機だ、演習だ」ということでかまわずに作業をやっていたわけです。
 それから飛行機が旋回して来ると、アメリカ軍の飛行機だとわかったわけですな、友軍も。
 この大空襲を経験して、年が明けたら避難が始まったわけです。最初避難は読谷のほうは国頭村の浜から宇良、伊地、与那までですな。私も引率致しまして、最初は馬車のある方は読谷から出て国頭(村)浜まで行ってもいいし、徒歩で行く方は名護の田井等の学校に一泊して、翌日そこを八時に発って喜如嘉まで歩いて行く。また馬車を持っている人は喜如嘉の学校に泊まらないで、国頭(村)浜まで行きました。それから避難先に配置していきました。そうして仮役場は奥間にあったわけですね。
津波古 私は羽地の学校におりました。一〇日間あそこで避難民の世話をしました。
長浜   喜名方面の人が国頭(村)浜から始まって伊地とか鏡地とか、長浜なんかは宇良、伊地、与那まで行って一、二の家族はずーっと佐手まで行った人もいました。
 そして配給の制度はですね、名護に本部があったわけですよ。学校で一泊すれば夕飯と朝ご飯と昼の弁当を婦人会が炊き出してくれるんです。あくる日は喜如嘉の学校でそこの婦人会の方が。そこに泊まらない方々も配給はありますから、私がわかる分は晩自転車で配付した場合もありますよ。空襲のない静かな晩にはできたんです。そういうふうな調子で疎開支援事業が終わったということで、役場のほうも引き揚げる、三月二十七、二十八日からは仮役場も引き揚げたんじゃないかと思います。
 その前に徴兵引率もしていったんですが、最後の召集がですね、三月二十日。これは繰り上げ壮丁の方々を私が引率して北谷の学校に連れて行ったが、一〇日ぐらいたったらすぐ上陸しておりますから、どうなったんでしょうかね。昼は空襲が激しいですから、晩歩いて北谷の学校まで行きましたよ。
津波古 北谷だったら近いほうですね。私は那覇に行きましたよ。
長浜   そういうふうな情況でありましたが、私は三月二十八日にみんなを国頭まで連れて行き、それからはめいめい好きな所に行きなさいと言って、国頭から自転車で家に米を取りに行ったわけです。残した人たちのその後の状況はわからないわけですがね。
司会   戦争というのを肌でじかに感じられたのはやはり十・十空襲以後という感じですか。
津波古 そうですよ、はい。
全員   はい。
長浜   戦争は兵隊にがんばらせて、とこれしか考えてなかったわけですね。
津波古 そうですよ。
屋良   大本営発表というのがありましたね。あれを毎日書いてこれを家族の人に見せて今日もこういう情報が入ったと持っていくわけですよ。私は親にも字民にも、疎開するように宣伝して廻っていたんですけどね、私の親は「イャーヤナー役場イジランキヨー。日本ノ国ヌンマキーンチンアミ、疎開リーシェーチャーンナラン(お前はもう役場には行くな。日本の国が負けるわけがないでしょう。疎開なんてとんでもない)」と言ってね。いつも大本営発表を聞かしているものですから信じきってね、行かなかったですよ、私の家族なんか。
波平   大本営発表が一番だったからね。
司会   じゃあ十・十空襲以前は、皆さんは役場にいらしても戦争というのを肌で感じることはなかったわけですね。
全員   はい。
司会   一般村民もそれは同じだということですね。
津波古 それはもう。
喜友名 空襲になったら避難したりしてやってはいますよ。
長浜   空襲が終わったらまた事務して。
真玉橋 事務は事務室でやって壕では事務はしていませんよ。空襲が来たら壕の中に入ったんです。
司会   わかりました。今いきなり十・十空襲とか上陸の話に入っていますけれども、まず初めにですね、十・十空襲のその日を個人別にですね、どういう体験をなされたか、長浜さんは先程話されましたから津波古さんから順序よく話して頂きたいのですが。その時に役場におられたのか、出張にいらしていたのか、どういう状況のもとに十・十空襲を体験なさいましたか。
津波古 十・十空襲の場合は役場の宿直で、与久田※※さんと私と島袋※※さんだったと思うんですよね。その時役場には二、三名しかいないから、空襲がやんでから村長さんもいらっしゃるし、助役もみんないらしてですね。空襲も終わって家に帰ったら、伊良皆の松の木などもみんな押し倒されて道も歩けない程なんです。
長浜   朝七時頃じゃなかったかね。空襲は早くからだった。
波平   非常にいい天気だった。
津波古 時間は正確にはわかりませんが、午後は五時頃まででした。
司会   十・十空襲の攻撃目標は飛行場だけですか。一般の民家もありましたか。
津波古・真玉橋 飛行場が主でしたね。
司会   それでも民家もやはり被害を受けているわけですね。
津波古 周辺はやはり爆撃等も受けました。
長浜   長浜でも家が焼けた。
司会   喜名の住宅も焼けたとか。
津波古 そうですね。
司会   町田さんどうぞ。
町田   朝は七時頃からですね、私は家で出勤の準備をしていました。牧原には兵隊がたくさん駐屯していて、兵隊も出て見ていたんですよ。演習かなと思ってですね。目標は読谷飛行場と高射砲部隊がありましたから、そこです。日中は攻撃を繰り返していたので、終わってから役場はどうなったかなと見に行きました。
司会   役場は何の被害も受けていませんでしたか。
津波古 役場は被害はありませんでした。
町田   喜名は通り一帯が焼けてしまいました。
司会   真玉橋さんも、町田さん同様、役場に駆けつけたのですか。
真玉橋 そしたら、仕丁の仲村渠さんもすでに来ていました。
司会   喜友名さんは役場には…。
喜友名 攻撃が途絶えてから行きました。当時の私たちは兵隊並みに一生懸命でしたから。午後はみんな集まっていました。
波平   翌日から役場で島尻、那覇からの避難民のごはんを炊いて…。
喜友名 そうですよ。翌日から。十一日から始まりました。おむすび作りが。
真玉橋 那覇も空襲でやられましたでしょ。翌日からすぐ避難民への対応が始まりました。
司会   役場前を通過なさる方に配ったということなんですか。
喜友名 はい。そうです。
司会   喜名学校で避難民は泊りましたか。
喜友名 泊まる人もいるし、そのまま通過する人もいました。
波平   飛行場は怖いと言って食べないで行く人がいたりしてごはんがたくさん余った場合もある。
喜友名 婦人会も青年団も来て手伝ってくれた。炊き出すのは役場でだったね。配給の米が、おそらくあったんでしょうね。
真玉橋 役場には非常米といって蓄えがありました。
司会   じゃあ次真栄田さんお願い致します。
真栄田 私はあの頃は国場組の建築部の事務所にいたんですよ。
司会   まだ役場にはいらっしゃらないわけですね。
真栄田 はい。そこに波平の方で知花※※さんといってチビチリガマで亡くなった看護婦さんがいましたね、あの方が私を誘いに来て向こうで泊まったら、翌日は空襲になったものですから、飛行場はやられているといって夕方二人で一緒に行ったんですよね。そしたら建築事務所はみんなやられてしまって、焼け野原になっていて何もなかったんですよ。それで国場組を辞めたんです。
司会   事務所は飛行場内にあったんですか。
真栄田 設営本部は伊良皆の後ろにあったんです。建築事務所は座喜味の前だったんですけど職員みんな向こうに寝泊まりしていましたから。
屋良   それから土木部にいらしたの。
真栄田 ううん、建築部。それからは事務所も焼けてなくなって一般の事務員はみんな解散したんです。それで役場の方が忙しいということで、収入役の山城※※さんの紹介で役場に入ったんです。それからは事務所の方でちょっとやって二月頃からは防空壕の中で仕事もやりましたね。
波平   翌日は日本軍の飛行機でいっぱいだったよ。
喜友名 それは南方攻撃に行ったんじゃないですかね。二、三日したら飛行機なくなっていましたよ。
波平   蝿がたかるように、飛行場が飛行機でいっぱいしていた。航空隊の宿舎でごはんを食べたが航空隊のごはんはおいしかった。
津波古 十月十日の空襲ね、※※さんとお互い三名じゃなかったですかね。
島袋   そうだったかも知れませんね。十月後は空襲が時々ありましたね。
波平   いい天気には必ず来たね。
真玉橋 (島袋)※※さん大変御苦労だったね。空襲警報がかかるとすぐサイレン鳴らしに、サイレン台に上がるでしょう。あの時私は大変怖かった。サイレンを鳴らしている時に飛行機がどうかしてぶつかったらどうするかねと。高台に上っているでしょう。本当に御苦労さんだねえと思いましたよ、あの時は。
島袋   「警報発令」というと伝令が集まるんですよね。
司会   警報の知らせが入ったら、それは仕丁の役目だったんですか。
島袋   そうです。電話取るのとね。仕丁は常時そこに居るもんだから。
真玉橋 役場に高い台があって、サイレンで警報を発したんですよ。みんなに知らすために。
島袋   仕丁の場合誰かひとりはおりますからね。電話がかかったらすぐやるんです。電話を取って警戒警報の場合は「警戒警報発令」と叫んで、空襲警報なら「空襲警報発令」というふうにして、そして各部落の伝令が待機していますからね、集まって今日は何であるかということで、みんなに指令して散って行くんですよ。
波平   私は農業をしていたんですが、飛行場用地に畑を取られて仕事がなかった。私は農業が好きだった。親も農業だし、私は牛馬も好きだった。
 あの当時は馬と馬車を持てば、飛行場建設で一日でかなり儲かるから、すごい景気だった。私達は飛行場に畑を取られたので、うちの親父としては、馬も馬車もあるからなるべくは飛行場に行って儲けなさいと言わんばかりだった。あの当時のはやりの言葉が、国のため、天皇陛下のため、どこにいても何の仕事をしていても、国のため、天皇陛下のためだった。比嘉※※さんたち先輩にすすめられて役場に入ったが、親父はちょっと不服だった。役場の給料は四〇円には満たなかったと思うさ、馬車、馬をもっていたらぼろ儲けできたから、「ゆうれい馬車」も出した時代だからね。当時役場で最初に手をつけたのが、エンジン付き脱穀機があったさ、それを責任持たされて管理していた。精米所の波平の人と二人だったが、足で脱穀して米落とすでしょ、機械でやるのは村の原山勝負だったかな、その時に回して、それだけ。それ以外は使わなかった。
 それから、米の収穫時期に脱穀機にさす油がなくて、三合瓶や一升瓶に油を入れて各字を回った。何もなかった時代だから。

部隊の移動

喜友名 一九四五年(昭和二十)三月頃からは兵隊は台湾とか南部に大移動。みんな引き揚げて。
屋良   (兵隊が)引き揚げたのはもっと早くですよ。年明けから早くですよ。そんなにせっぱつまってからではありませんよ。十・十空襲以後年明けたらすぐ。
喜友名 (移動は)始まってはいるけど、読谷山村に最後まで残っていた部隊が移動したのは三月頃からでしょう。どこに行ったかねえと思ったけど、後で首里にいると手紙を送ってきた人もいたんです。
屋良   私の家にいた部隊は摩文仁あたりに移動したらしいんですよ。そこから来た一通の手紙が、先をよみとってか知らないけど、覚悟めいたことが書いてありました。今でもその話をする時には涙が出るんですよ。読んでみましょうね。北海道出身の方でですね、私達兄弟宛に送ってあったんです。「嵐が吹こうが、雨が降ろうが足にとげがささろうが、絶対に学校を休むな。お国のためになる人間になってくれ。それからこの東中尉が死んだら、出来ることなら貴方の家の茶畑に埋めてほしい。私の気持ちとしてはこの形でしかご恩返しが出来ない」という一通の手紙が来たわけですよね。だから、死を覚悟して自分の郷里の北海道に本当は帰りたい気持ちもあるけど、この沖縄のどこで散るかもわからんけど、その遺骨がもしも収集されるんだったら、少しでも知っている貴方達の茶畑に埋めてほしいという。この形でしかご恩返しが出来ないということで、と結んであったものですから、これが忘れられない。そして、別の兵隊は満期になったということで、荷物をひとまとめにしていたらしいですよ。だけど船も出ないしお前はもう帰れないと言われて、家族の写真を出して泣いていたと。みんなそうですよ。夜になると家族の写真を出しては涙ぐみ、そういうことでしたよ。
町田   あのですね、空襲警報が発令された場合には、警防団が明かりがついてないか回って、明かりがついていると大変だから、夜間の空襲の場合は一番それが重点でした。夜間、役場は、あの時は電気はありませんからろうそくを使っていたんですが、空襲警報が鳴るとすぐ消した。
上地   灯火管制といいましたね。
波平   空襲関係の通報はいくつもあった。警戒警報、空襲警報、それぞれの発令や解除とね。私は警防団の役員をしましたがね、読谷山村の警防団長が比謝矼の比嘉※※さん、副団長が比嘉※※さん、渡慶次校区の支部長が山内※※さん、古堅校区の支部長が砂辺※※さん、読谷校区は私が支部長だった。
 組織は立派にできていたが、団員はほとんど兵隊に取られて座喜味では親が代わりを務めていた。

米軍の上陸前後の状況について

司会   四月一日に上陸するんですけれど、三月二十三日あたりから上陸前空襲が始まるわけですよね。そこら辺の状況から入って行って欲しいんですが。
町田   三月二十三日から空襲が始まりまして、それからは毎日です。そして二十五日に軍の方から非戦闘員も全部避難するようにという命令が役場の方に出ました。二十五日から艦砲射撃が始まっています。
司会   二十五日ですか。これは役場職員に対しても避難せよという命令が出たわけですね。一般住民に対しては、直接軍からですかそれとも、役場職員、警防団あたりが避難するようにと言ったんですか。
町田   軍から避難命令が下ってですね、役場で一般村民に避難命令を出した。軍の命令だったんですよ。上陸を予想してですね。
司会   町田さんが読谷山村を出たのはいつですか。
町田   二十六日です。
波平   一九四五年(昭和二十)の三月にね、上陸空襲始まったから、私は家に帰って行ってね、山田軍曹といって仲のいい兵隊が「あんたがたは兵隊でもないし、非戦闘員だからね、家もたたんで山に逃げなさい」と言った。荷物を抱えて行く途中、今のトーガーあたりで兵事主任の上地※※さんに会った。あれは兵事主任だから、私に「シカボー(臆病者)」と言った。私は一応辺土名に行って帰って来るつもりだったが(辺土名に)行ったら帰れなくなった。だから私は役場の解散命令より先にやんばるへ行ったさ。二十五日ぐらいじゃないかな。
 山に行ったら、村長や役場の連中は避難して来るでしょう、村長に怒られないかと思ったが、叱りはしなかった。田草取りとか奉仕作業があるかもしれないから、周囲の読谷山村民の名簿を作っておきなさいと言われ、名簿を作った。それから馬を潰したさ。宇座の人から買ってね、あれで命を繋(つな)いだ。
喜友名 じゃあ、私達は一番最後まで残っていたんだね。
屋良   役場の職員が最後まで残っていましたね。
喜友名 避難民はその前に。
波平   もうシーンとしている、部落は。
真玉橋 避難先の部落も割当されていましたね、各字ごとに。どこそこの部落にと。
喜友名 年寄りのいるところは真っ先に行きました。
発言に聞き入る参加者たち
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司会   その前に避難命令は、勿論県からも来ますし、軍からも来るわけですよね。この伝達は皆さんがなさったんですか。それとも字の役員がなさったんですか。
喜友名 村からやっぱり、各字の区長を通じてね。
長浜   三月になってから。役場からも字事務所からも軍からも、疎開しなさいと言うが、なかなか動かんですよ、みんな。行くことを怖がって。そうして今度は、私も村長の命を受けまして、引率員となって避難地域は国頭(村)浜から与那まで行きました。(引率に関する詳しい事柄は、本人の体験談参照)
 そういうふうな事で私は、一応はみんなを連れて行き、また読谷に来て、その後国頭へ行ったりして、それが二、三回続いたんです。仮役場が奥間にあったのですが、三月末に入ってからは指定地も何も関係ないわけで、三月二十八日になると行政機能もストップしていたんですよ、指導する人も誰もいない、めいめいの勝手でした。
 伊良皆の人たちを引率している時に、塩屋(湾)の所は徒歩で行くんですが、子ども達が多くて大変だからといって、船を借りて船で行こうとしたわけです。ところがその途中で空襲にあいました。けが人はいなかったんですが。

村民の疎開・避難について

司会   村民の疎開・避難についてお話して頂きたいんですが。村民がどういう形で避難されたのか、そして役場職員としてどういう指導をなされたのかですね、そこら辺の状況について語って頂きたいと思います。まずは読谷山村からの本土疎開については役場で斡旋したんでしょうか。
喜友名 話は一応ありましたね。役場としては区長なんかを集めて話はしていましたよ。
司会   これはやはり、皆さん役場の方々が区長をとおして本土に疎開するように、もちろんそれは県庁あたりの指導があったと思うんですが、そこら辺の状況いかがですか。
長浜   これは村長から各字に、村長の権限で区長と相談してやったんじゃないかと思うんですがね。
司会   ああそうですか。直接引率して那覇港まで連れて行ったとか、そういうことはありませんか、役場の方々が。
長浜   それは無かった。
司会   皆さんの業務としてはそれほど本土疎開に関わらなかったということですか。
喜友名 そうですね。
長浜   関わりは無いです。
司会   わかりました。じゃあ、沖縄本島内の村民の避難ですが、避難地の割り当てはありましたか。県からありましたか。
喜友名 ありました。読谷山村は国頭村でしたよね。
長浜   そうです。読谷山は国頭村でした。
波平   初めは嘉津宇岳だったということだけど、海から艦砲の恐れがあるということで変更になったという話があったよ。
長浜   国頭村浜から与那までの各集落にさ。県からは疎開しなさいと。軍からも命令されて。
真栄田 高志保の人たちの疎開先は奥間だったね。
屋良   古堅は比地に行ったということでした。
司会   比地では、民家を読谷から避難した方たちに分宿、提供したそうですが。与那覇岳のふもとにも避難小屋を七〇世帯分程作ってあったそうですが。
波平   辺土名にもあったさ。
司会   どうでしたか、やはり比地の方がおっしゃる通り、読谷山村民は比地の各家に分宿して過ごしておられましたか。
喜友名 はい。私の従姉妹が一時比地の民家にいましたが、食糧はあっちこっちから貰ってたくさんありました。
司会   民家にですね。向こうの人の家に。
喜友名 比地、謝名城、田嘉里、喜如嘉、饒波あの辺までいましたよ。
司会   その他の集落に避難された方はいらっしゃいませんか。
真栄田 座喜味は辺土名ですよ。
波平   辺土名には役場の防空壕もあった。
司会   じゃあ字毎(あざごと)の割り当てみたいなものもあったんですね。
町田   疎開は老人所帯等を優先してですね。国頭村の方に役場の職員が五、六名ぐらい行っています。多分奥間だったと思います。
司会   仮役場を設置したということですね。
町田   はい。辺土名の方に国頭村の役場がありましたから。村当局と連絡を取って配置なんかはやったんじゃないかと思います。部落の配置は確かにあります。切羽詰まってから辺土名に行ってですね「あんた達の配置は浜だ」というので「浜というのはどこですか」と聞いて辺土名から浜の方に下りて行きましたので。部落の配置は、確かにあったと思います。食糧の配給等もありましたから。
司会   役場職員で奥間に行かれた方々は誰誰か覚えていらっしゃいませんか。
町田   松田※※さんと…。
屋良   上地※※さんとか。
喜友名 新垣さんも行っていたね。
真栄田 儀間※※さんも…。
長浜   仮役場はね上地※※、上地※※、松田※※、それから…。
町田   比謝矼のですね渡久山※※さんなんかも。収入役の山城※※さんも早く行かれたと思いますがね。
長浜   知花清村長と※※。
屋良   ああ、知花※※。
真玉橋 知花※※さん。
波平   若い人だったよね。
喜友名 行っていましたけどあの人は召集されましたよ、後で。
真玉橋 あの方は戦死したでしょう。
長浜   ※※もだったんじゃないかね。
司会   大城※※さんですか。じゃあもう一回確認します。渡久山※※さん、大城※※さん、松田※※さん、楚辺の上地※※さん、あとは。
真栄田 儀間※※さんも奥間に。
屋良   収入役さんも行ったような気がする。
真栄田 行って帰られたんでしょうね。
喜友名 子供たちを連れて行かれて、それから帰られたんじゃないかと思う。
司会   そういう方々が携わったということですね。
喜友名 と思いますよ。
司会   それとですね村民の避難の順序と言いますかね、楚辺で聞きましたら、登録制だったとおっしゃる方がいらっしゃったんですよ。登録して名簿を作ってですね。
波平   作ったかもしれない…。
長浜   それはですね、最初は多分区長を通じて役場にそういう名簿もあったはずです。しかし区長が言っても、村から激励しても、行きなさいといって励ましても、最初の頃は行きたくないんです。
波平   家もおいて行くわけだから。
長浜   そう。財産その他にこだわってね、行かない。だけど希望する方は早く行った。そういう関係で最初は登録もありましたが、後からは無いということです。戦争が激しくなると尚、そんな事は無くなり、何でも構わないめいめいの行きたい所にというふうな調子でしたよ。最初はちゃんと、どの字からという順番はあったんですよ。だから今先私が申し上げましたように、喜名あたりは最初でしたから国頭(村)浜に割り当てて、それから比地、伊地というふうに。
喜友名 喜名は空襲を受けて家も無くなっていたさーね。それで早めにしたんでしょうね。
長浜   そういうふうな事はありました。
町田   大きい部落は順序はあったかもしれませんが、希望者が多い場合にはですね、あったかもしれませんが、うちの部落なんかは小さいからですね。
屋良   私たち長田も行かなかったよ。国頭では避難小屋は各字ごとに設置されていたそうですよ、山の中に。国頭の人たちが造ったという話ですけれども。
真玉橋 受け入れする所で配給の手続きがありますからね、受け入れする部落はこれだけ配給貰わないといけないから登録が必要だった。
長浜   こういう調子ですよ。私は喜如嘉におりましたが、山城※※という方が環境保健課にいて、その方と私はいつも役場を行ったり来たりしていました。食糧配給の本元は名護でした。国頭は全部名護から。そういう配給はその字に(避難民が)何名入っているということを報告して…。
真玉橋 配給物資の関係で名簿は必要だったかもしれないね。
司会   避難の順序みたいなものは、最初艦砲が激しくなる前まではやろうとしたんだけども、村民が行かない、応じてくれないというのと、どんどん艦砲が始まったら登録どころの話じゃなくて、緊急を要するのでドサッと避難しなければいけなくなったというのが実情であったわけでね。
長浜   そうです。だから仮役場はあっても村民がどこにいるか役場でもわからないわけさ。
波平   ※※さん、あんたたちは辺土名で配給はなかったか。
喜友名 配給は受け取れませんでした。取る余裕はなかった。もう大変だ大変だと。そのまま山に上って逃げましたから。
司会   今日は、役場職員としての体験を語っていただきありがとうございました。これまでの話で当時の読谷山役場の動きが把握できたように思います。また、屋良さんには遠い南風原から、それも朝早くからお越しいただきありがとうございました。
 朝一〇時から午後四時まで、本当に長時間にわたり、いろいろな体験談をお聞かせ頂き感謝の気持ちでいっぱいでございます。これにて座談会を閉じたいと思います。ありがとうございました。
(*この座談会は、一九八八年五月二十六日に行われた『沖縄戦当時の読谷山村役場職員座談会』の第一回と同年六月二十日に行われた第二回『沖縄戦当時の読谷山村役場職員座談会』の様子をまとめたものです。)
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