第六章 証言記録 体験記


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十・十空襲そして恩納岳への避難

真玉橋※※(喜名・※※)大正四年生

国防婦人会の事務

 私は二十七歳の時に役場の職員になり、一九四四年(昭和十九)当時は諸証明書の発行、法令法規集の加除、そして国防婦人会の事務などを受け持っていました。月一回の国防婦人の集まりに参加するため、普天間の農事試験場まで歩いて行ったりもしました。そこで中央からの「達し」を受けて、それを各字の婦人会に伝えたりしましたよ。かんざし献納(貴金属を国に納めること)の時などは国防婦人会が集めてトラックで運びました。
 家族は、夫が出征していたので、義父母とその娘二人と私たち母子の六人だったんです。私は朝六時頃に起きて、七時には食事を済まして仕度をして役場へ行きました。その頃私の家の一階にも二階にも、たくさんの兵隊が駐屯していました。私の娘は五歳だったので、兵隊たちはとてもかわいがって、朝の出勤前にこの子に歌を歌わせたりして和やかに楽しんでいる様子でした。

十・十空襲

 十・十空襲の日、私はいつものように朝の七時ごろに芋を煮て、友軍の兵隊にもあげようとしていました。するとパラパラと音がして、地響きがするもんだから「何ですかね兵隊さん」と聞いたんです。「飛行場のほうで演習しているんでしょう」と言うんですが、私は「そうですかね、でもなんか様子が違うみたいですよ」と話していたんですよ。
 ところがしばらくして、外を見ていた兵隊が「あっ、敵機だ!空襲だ!早く逃げなさい、逃げなさい!」と言って、彼らもそれから大騒ぎで支度して、部隊へ行ったんですよ。それが七時半か八時頃でしょうか。
10・10空襲の消火活動
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 弾が民家に落ちて火事になり、今の喜名公民館ですね、あの通りが焼けたんですよ。「ウリヒャーナーあっちに爆弾が落ちているってよ」と言って、前もって消火訓練はしていますから、今考えると本当に馬鹿げてますけど、バケツを持って大急ぎで走っていきました。しかし、現場に着いてみると、火の勢いがすごくて中に入れないんですよ。バケツの水だけではどうしようもなくて、結局「ヒンギランネー、デージヤサ(逃げないと大変だよ)」と言って、うちに帰ることにしました。そのとき「※※(屋号)のおばあさんが爆撃にあって焼け死んでいる」というのを聞きましたが、でも怖くてそこには行けなくて、そのまま家へ引き返しました。
 家に着き、荷物を運び出そうと思うのですが、二階建ての我が家は爆風でグラグラして入れないんです。それでも柳行李(やなぎごうり)(柳の枝と竹で編んだ衣服等を入れる編み籠)ひとつは担いで防空壕に入れました。そうこうしているうちに九時頃になり、今度は二度目の攻撃が、郵便局の方から私の家へ向かってはじまったのです。どうしようかと思って、ふとんを出してきて庭の片隅に繁っていたキャッサバの木にかぶせて、そこの下にもぐって一時をしのぎ、次に家の近くの井戸のそばに掘ってあった防空壕に逃げ込みました。振り返ると自分の家が燃えているのに消しにも行けないし、「アイエーナー、ワッターヤーガヤキール(あーどうしよう。うちの家が焼けているよ)」と言って見ているだけです。
 それからちょっと爆撃が途絶えたので、ここではしのげないからと、子供を一人連れて役場の大きなガジマルの下に掘られた壕に移動しようと外に出ると、薬莢がカラカラーと地面に落ちる音がして、また空襲が始まりました。私の家のすぐ後ろに住んでいた「※※」の壕が道のそばにあったので、そこに入りこんで「助けて下さい、私たちは役場の壕に行くつもりですけど…」と言ってそこの壕に入りこんでしばらくしてから、役場に行ったんです。
 そこには仕丁の仲村渠※※(瀬名波出身)がすでに来ていました。「※※さん、私の家は焼けているけど、どうしようかね」と言ったら、「じゃあ行ってみよう」と言って、彼と一緒に家の様子を見に行きました。夕方ごろですかね、家も荷物も全部焼けてしまっていたのです。
弾薬置き場になった民家(宮平良秀画)
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 結局、この日の空襲で通りの西方面は全部焼けたんです。
 ※※(屋号)の庭に爆弾が積まれていたので、それが爆発して大変な大火事になってしまいました。敵機は飛行場を破壊するのが目的だったと思うのですが、本部落からイリバルにかけても爆撃したわけですよ。この日に亡くなられた屋号※※のおばあさんは、小橋川※※おじいと饒波のおじいが葬ったと聞きました。また、屋号※※のおばあさんも亡くなりましたが、親戚が葬ったそうです。
 そしてその日のうちに、私たちは残った荷物を持って、長田の山に避難しました。その晩は山羊小屋に泊まり、翌日からその隣の山に防空壕を掘って、しばらくはそこにいました。

恩納村へ避難

 三月の末になると、米軍機動部隊が近海に迫り、連日空襲が続き、やがて艦砲射撃も始まったんですよ。私は役場職員だったので、役場が解散の時まで喜名にいました。婿家は十・十空襲で焼けましたが、実家は焼け残っていましたからそこで寝泊まりしていました。
 娘は実家の父母と一緒に、一九四五年(昭和二十)の二月に恩納村に避難させてありました。配給物資の関係もあり、恩納村の方に住民登録していました。
 役場では、南部から避難していく人々に炊き出しをするため、国防婦人会に動員をお願いするなどの業務をしていました。この頃は、飛行場に夜通し照明弾があがるので、夜も昼間のように明るかったです。
 そうしているうちに、役場にも解散命令が出て、「これは大変だ。明日、明後日にも上陸するかもしれない」というものですから、三月二十九日の晩に喜名を出ました。食糧物資はいつでも持ち出せるようにまとめてあったんです。味噌や大豆、いろんな乾物等も作ってありましたから、それをたくさん担いで、歩いて恩納に向かいました。途中で警防団の人に山田の手前で会って「一人で歩いたら大変だよ」ということだったんですが、避難民が前にも後ろにもついていましたので、その人たちもいるから大丈夫だと思い、夜通し歩いて恩納まで行きました。
 恩納に行ったらあっちは悠々としているんです。「大変だよ。上陸するというからどこに避難しましょう」と家主に相談したら、恩納岳の下に行くというものだから、あっちの様子はよくわかりませんから「ウンジュナーガ メンセーントゥクルンカイ ソーティンジクミソーレー(貴方達がいらっしゃる所に連れていって下さい)」とお願いして恩納岳のふもとに行ったんですよ。
 恩納岳のふもとに行ったら、一時は大変静かで良かったんですよ。兵隊も通らないし。何日もふもとの方にいたので、下に下りては芋等を取っ来てそこで生活していました。昼は暇だからみんな集まってしらみ捕りをしたり、椎の実を拾って来てゆがいて食べたりしていました。そんなにひもじい思いはしませんでした。
 恩納岳は陣地だが伝令もこなくなっているんですよね。だから状況が全然分からないんです。
 そのうち艦砲射撃がひどくなり、恩納岳に集中しました。大きい松の木なんかも吹っ飛んでいましたよ。友軍の兵隊さんはどれだけ死んだでしょうね。あちこちに穴が掘られて、恩納岳の上の方にも死体が埋められていました。
 私は、役場から鉄兜と防毒面をもらっていました。避難した時実家の父に「これを持っていたらアメリカーに会った時、戦争する人間と間違えられるよ。どこかに捨てなさい」と怒られましたが、捨てる所もなくて、隠して持っていました。そして恩納岳に上って行ってから、包んで谷底に持って行って捨てました。
 恩納岳に避難して二、三〇日した頃ですかね、ふもとはアメリカ兵が通っているというものだから大変でした。艦砲弾は飛んで来るし、これじゃあここにはおれないから早く逃げようということになりました。
 ふもとへは下りられないので、山の頂上伝いに行くと、人がたくさん集まっていました。
 各地から来た人もそこに集まって、みんな一緒に安富祖に行こうということになったんですよ。
 その前に、私は避難小屋に忘れものがあったので取りに行った帰りに、山の中腹で四、五人のアメリカ兵に出くわしました。後には戻れないし、前にも行けない、どうしようかと思っていたんですが、このアメリカ兵は担架を持っていました。殺されると思ったんですが、言葉もわからないから、勇気を出して笑って、御苦労様と言ってお辞儀をしたんです。そしたらその兵隊達は「オーケイ オーケイ」と言っているようでしたが、私はもう生きた心地もしないで走ってみんなの所まで行きました。後で聞いたら、この兵隊達はアメリカの負傷兵を探して歩いていたそうです。
 アメリカ兵が来たら大変だから下りようということで、夕方山を下り始めたんです。そしたら、那覇の人でしたが、家族に置き去りにされた年寄りがいて、連れていってくれと言うんですが、私も五歳になる子どもをつれていますのでどうしようもなくて、家族でさえ置いていくんだから仕方がないと自分にいいきかせてそのまま進みました。夜なので川に落ちる人もいましたよ。川があると味噌がめに水を汲んできてみんなで回し飲みして、少し元気がでたらまた歩いたんです。夜が明けて川を見ると、友軍の兵隊が川に顔を突っ込んで死んでいたんです。それもたくさん、ずらっと。もう、死人の上からも渡って通らないといけないし、そうこうして、ようやく安富祖に下りたらアメリカ兵がいて、捕らわれました。そこで荷物を全部取りあげられ、後に石川に移されました。
(一九八九年六月二十日採録に、二〇〇一年二月再調査分を加筆)
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