第六章 証言記録 体験記


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国頭疎開引率

長浜※※(長浜)明治四十一年生

国頭疎開

 十・十空襲後は時々空襲があり、一九四五(昭和二十)の正月あたりからはだんだん空襲が多くなって来ました。
 一九四四年(昭和十九)の末頃から疎開するように言われていたと思いますが、疎開を実施したのは一九四五年(昭和二十)の二月頃からだったと思います。妊婦や病人、年寄り、男手を兵隊にとられた女所帯が残ったりと、さまざまな事情で避難できない人達も多く、みんななるべく自分の部落(シマ)に居たいということで、なかなか避難したがりませんでした。私は当時読谷山役場に勤めていて、国頭疎開の引率の任にあたりました。軍からも早く避難するように促され、読谷山では飛行場に近い喜名、伊良皆、親志あたりから先に避難しました。
 読谷山村の避難指定地は国頭村浜から与那まででした。読谷山役場を出発し、西海岸線沿いに行き名護の学校で一泊し、翌日は羽地の学校で一泊、三日目に国頭村に着きました。
 宿泊すると、そこの婦人会の方たちが炊き出しをしてくれて、夕飯と翌日の朝ご飯、それに弁当まで準備してくれました。だいたい三日で国頭に着きましたが、夜通し馬車を急がせて一日で着く人もいましたし、元気な人たちはみんなより先に着きました。逆に子どもや年寄りを連れている人達は遅れがちでした。一日か二日で国頭まで着く人達の分も食糧の配給はありましたから、どこにいるか所在の分かる分については、晩になってからその人達のところに食糧を配りに行ったりしました。

疎開者受け入れ

 疎開の引率をする時には、読谷山役場で名簿を作り、その名簿を持って行きました。国頭の仮役場でも名簿を持っていて、誰がどこにいるのか分かるようになっていました。同じ字でも宇良に行く人もいるし、伊地に行く人もいました。一回に何人避難するというふうに決まっているわけではありませんでした。私は国頭村までの道案内と食糧の世話をしていましたが、三月の初め頃は疎開者指導員ということで、喜如嘉の学校にもしばらくいました。
 読谷山村と国頭村とは既に連絡がとれていましたので、私が引率した読谷山村民を国頭の各字の区長さんや役員に紹介して、読谷のどこから何人来たのか報告しました。その後、国頭の各字の区長さんが私たちの避難地を割り当ててくれました。様々な係がいて避難民の世話をしてくれました。
 私は読谷から疎開地に移動するまでの世話係でしたので、知花村長が奥間にいらっしゃるということは知っていましたが、どこにおられるかは知らず、村長と話をする事もありませんでした。私の主な仕事としては、国頭へ疎開する際の食糧の確保と受け入れ人数の連絡などでした。
 奥間にはターブックヮ(田圃)があり、食べ物がたくさんあるということで、みんな奥間に行く事を望んでおりました。避難指定地は字ごとに決められていましたが、早い時期に避難した人は避難地を選ぶことができました。
 伊良皆方面の方たちを引率していた時だったと思うのですが、大宜味村塩屋にはまだ橋が無く、遠回りをしなければいけませんでした。私たちは子どもをたくさん連れていたので、船を借りて船で渡ることにしました。その時空襲にあい、急いで船から降り、塩屋の学校の後ろの防空壕に避難させました。幸いケガ人はいませんでしたが、怖い思いをしました。
 最初の頃は、昼も移動ができました。戦況が悪化し、読谷からの疎開引率は二、三回しかできませんでした。三月に入ると空襲が多くなり、三月二十八日頃からは役場も解散してしまい行政もなく、指導する人もいなくて、次第に「めいめい行きたい所に行く」といった状況になってしまいました。

三月二十八日、読谷へ向かう

 私は家族を国頭村字比地に避難させてありました。米軍上陸が近づいた三月二十八日には仮役場も山に引き揚げていましたので、私は家に置いてあった食糧を取りに行くために、国頭から読谷に向かいました。国頭から自転車で出発したのは、三月二十八日の午後四時頃だったと思います。
 県道は中、南部から国頭に向かう避難民でごったがえしていて、子ども達はあちこちで泣き、人々は着のみ着のままで悲惨な状況でした。私はその人たちとは逆に南下して読谷へ向かっていました。ちょうど私が名嘉真橋にさしかかると、日本軍が米軍上陸の進撃を阻止するために橋を壊そうとしているところでした。爆破される前に私はその橋を渡り、夜通し走って谷茶に着いた頃に夜が明けました。谷茶の丘から海を見ていると、谷茶から長浜の海にかけて、米軍の艦船がたくさん並んでいるのが見えたので、びっくりして谷茶の防空壕に戻りました。
 谷茶の部落には、アメリカ軍の飛行機が低空飛行でガソリンを撒き、その後に曳光弾(えいこうだん)を落としました。そうですね、半時間か一時間くらいで部落は全て焼き払われてしまいました。私は村はずれの防空壕に入っていましたが、そこにおじいさんが逃げてきたので、その人と一緒に山の方へ逃げ、その晩はそこに泊まりました。
 米軍の上陸は四月一日といわれていますが、三月三十日頃私は真栄田岬で米兵を見ました。終戦になってからアメリカーから聞いたのですが、残波から上陸した兵隊もいたそうです。上陸用舟艇から網を投げて引っかけて、それから上がったということです。
 そして翌三十日の晩、私はやっと家に着きました。長浜にはカンジャーヤーガマとウフガマという洞窟がありましたので、長浜に残っている人たちはそこに避難していました。その晩、長浜のヒランチヂ(地名)に上がって海の方を見るとそれこそ歩いて渡れるくらいの上陸用艦船が集結していました。先に上陸してきたアメリカ兵が電話線のようなものを張ってあり、それに何かがひっかかるとめくらめっぽうに撃っていました。その晩、長浜のティランジュ(地名)でカンカンカンと音がしました。その線に何かがひっかかったんだと思います。
 妻の親が現在の与久田ビーチの近くの壕にいましたので、三十日の晩はそこに泊まりました。飛行機が低空飛行をするのを見て友軍の飛行機だと思いこみ、戦いは勝ったのだと壕の中で話し合っていました。そして壕から出てみると、戦車のキャタピラの音がしました。友軍の戦車だと思ったらアメリカ軍の戦車だったので、「大変だ!」と思いました。その時、壕の中にいたある男性があわてて壕の中で立ち上がり、岩に頭をぶつけてケガをしたのでした。
 国頭なら大丈夫だから、国頭に行こうということになり、壕を出ようとしましたが、攻撃がすごくて壕から出ることができませんでした。それで「どうせ死ぬなら宇加地で」と思い、晩になってから宇加地へ向かいましたが、さらにそこを越えて喜名まで行くことにしました。宇座の※※(屋号)のヤッチーともう一人と私の三人で鎌を持って、宇加地から喜名に向かう川沿いを辿って行くと、米軍が張った線に触れたらしく一斉射撃を受けました。しかし何とか三人とも無事でした。そのあたりには海軍の壕があり、米や食糧はいっぱいあるのに、人は誰一人もいませんでした。座喜味の東の防空壕に行ったのですが、そこにも誰もいませんでした。こんな所でウロウロしていては大変だということでまた宇加地の壕に戻りました。壕の中では、儀間の※※(屋号)のおじいさんがクルジナーを着て、帯に刀をさしていました。そこに私達が帰ってきたものですから、びっくりして「※※、イッターヤ、マーンカイ、ンジャガ(貴方達はどこに行っていたのか)」と聞くので「ワッターン、ナートーイヌムン、イクサヌ、ティガネーシーガ、イチャビタン(私達も貴方と同じ、戦の手助けをしに行ったですよ)」と答えました。
 四月一日の朝、長浜や宇加地に残っていた人達は捕虜になったそうです。私達はみんなが捕虜になったのも知らずに、その晩宇加地の壕に戻りましたので、捕虜になったというわけではありません。
 捕虜になった人達は翌日の朝に、長浜の人は※※(屋号)の屋敷と字事務所の二か所、宇加地の人は浜に集まるように言われ「アチャマディヌ、ヌチルヤル(明日までの命だ)」と言って泣く人もいました。みんな集められて殺されると思ったようでした。
 二日くらい後に私は家族を迎えに行こうと思い、仲泊の方まで行きました。アメリカ兵にも会いましたが、彼らはどうもしませんでした。彼らは宣撫兵のようでした。宣撫兵は一線部隊とは違い攻撃してきませんでしたので、安心して道から歩いていました。ところが仲泊あたりで、機関銃をもったフィリピン出身らしい兵隊に呼びとめられました。私はその頃三十八歳くらいですから、兵隊に間違われたら大変だと思い、彼らが来るのを待っていました。どうするのかと思っていたら仲泊の山の方に連れて行かれました。そこにはたくさんの黒人兵がいました。宣撫兵の中には黒人兵はいなかったので、その時初めて黒人を見ました。それから二世が来て、どこに行くのかと聞かれたので、国頭に家族を迎えに行くと言いましたら、国頭はまだ占領していないし、宣撫兵もいないから危ないと言うのです。それから、彼は私が兵隊ではないというような証明書をくれました。それから黒人兵に付き添われて、元の道まで戻りました。道から歩いたら大変だということでしたので、浜の方におりて行って歩いていると、また別のアメリカ兵に呼び止められました。さっきもらった証明書を見せたら帰してくれました。そしてアメリカ兵に会ったらこの証明書を見せなさいと言っていました。
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