読谷村史 > 「戦時記録」上巻

発刊によせて
山内徳信

 はじめに ――記憶から記録へ

 このたび『読谷村史』第五巻資料編4「戦時記録」上巻が発刊されました。村民とともに心から喜ぶものであります。村史編纂事業は読谷村(民)にとって極めて重要な文化事業であり、平和創造の事業であります。その一環として戦争編「戦時記録」が企画され、作業に着手し、十有余年の歳月を要し、ここに見事に完成いたしました。在任中企画立案した者の一人として、その使命の一端を果たすことが出来た思いであります。
 膨大な資料の収集、調査、大勢の体験者からの聞き取りテープ起しなど、時間と忍耐を要する困難な仕事でありました。さらに執筆、監修、編集と、それこそ大事業でありましたが、事務局を中心に、各字の皆さん、編集委員の皆さん、そのほか多くの方々の熱意と昼に夜を次ぐ御奮闘の成果であります。ここにあらためて敬意を表し感謝を申し上げる次第であります。
 思えば戦争の時、防空壕の中で生まれた子どもたちが五十七歳になり、既に人生の半ばを越えるのであります。戦争体験者は年々減って、戦後世代が人口の大半を占めるようになりました。
 どんな体験者でも記憶のままだと、人間一代限りであとは消えてしまいます。それを活字にし記録として残すことによって、歴史となり、その「教訓」は未来へと継承されていくのであります。

 虚妄に満ちた皇民化教育と軍国主義教育

 私はこれまで、中国・大韓民国・東南アジア諸国からの来訪者に、戦前・戦時中の日本の侵略戦争に関連する一連の所行に対し、加害者・日本人の一人として何度となく陳謝してきました。それは、私の意識の中に深く刻まれた少年の日の教育の影があったからであります。
 アジアの人々に大きな声で「申し訳なかった」と心から言うことによって、つきまとっていた陰影を払いのけ、明るい信頼関係を築きたいと思ったからであります。
 私は沖縄戦の時、渡慶次国民学校に通う十歳の少年でした。当時は、徹底した皇民化教育、軍国主義教育をたたきこまれた時代でした。したがって、私たちの意識の中には、日本国民は一等国民であり、他のアジアの国々、すなわち朝鮮、中国、台湾、フィリピン等の国民は、二等国民として差別し、蔑視する意識が植え付けられていました。それが侵略戦争を進めた日本のアジア観であったわけですが、少年の私たちは、そのことを信じて疑いませんでした。
 戦争が終わってはじめて、日本人は、皇民化教育と軍国主義教育の虚妄と恐ろしさに気づいたのであります。

 (一)皇民化教育
 戦時体制化で渡慶次国民学校も日本軍が駐屯するようになるのですが、それ以前は、毎週全体朝会が運動場でありました。そのとき、必ず天皇陛下が住んでいる皇居に向って(北向き)宮城遥拝(きゅうじょうようはい)(深々とお辞儀する)をするのです。弁当はいつもイモでした。昼食時間に学級全員で唱える言葉があったのですが、それは確か「天地(あめつち)におう、おんめぐみ君と親とのご恩忘るな、いただきます」そんな意味の言葉でした。要するに「君(天皇)」の恩を忘れるな、というのです。
 天皇陛下を「神(現人神)」としてあがめ、日本は「神の国」であり「神の国」のやる戦争は正しい戦争で「聖戦」であるというのです。その戦争は「東洋平和の為」であり「アジア共栄圏」を築くためである、という教育でした。

 (二)軍国主義教育
 戦争が大詰めを迎えますと軍国主義教育はさらに徹底されていきました。
 全校児童を運動場に集め「行進」があるのですが、指揮台の上には先生ではなく、「配属将校(軍人)」が立っているのです。学校は完全に軍人が支配するようになっていました。一九四四年(昭和十九)からは学校(教室)は兵舎となり、正規の授業は不可能になりました。各字の事務所(今の公民館)も、村内の多くの民家にも兵隊が入ってきました。
 戦争になり敵の軍艦が攻めてくると必ず「神風」が吹くから心配するなと兵隊から聞かされたものです。彼らも、そう信じたい気持ちだったのでしょう。
 アメリカ、イギリスのことを「鬼畜米英」と教わりましたから、本当に「鬼」、「畜生」と思って恐れていました。敵の捕虜になるな。「虜囚の辱めを受けるよりは潔く死を」という「自決」を示唆する風潮になっていた、と思われるのです。
 勿論、人権が尊重される時代ではなく、人間の命は鴻毛(こうもう)のごとく軽く、「一銭五厘」(葉書や切手の値打ち)と言われたのです。戦死すると「名誉の戦死」と称え、靖国神社に祀られることが名誉とさえ考えられる社会風潮になっていました。
 太平洋戦争(沖縄戦)期間、日本軍は「神風特攻隊」と称して、敵の航空母艦や軍艦に体当たり(自爆)させる肉弾戦法さえとりました。徹底した皇民化教育と軍国主義教育のなかで、少しでも厭戦的、反戦的言動をする者がおれば、「非国民」だと非難され、糾弾され「村八分」にされました。そして、官憲から弾圧される社会状況で、とても「人権」とか「平和」とか叫べる時代ではありませんでした。

 抄描写――村民は体を通して上陸を知る

 戦雲は日に日に沖縄に近づいてきました。村民(県民)はそのことを肌で感ずるようになってきたのです。
 一九四三年(昭和十八)の夏以降、北(読谷)飛行場の設営が開始されるのですが、読谷村民にとって、とりわけ土地を接収された人々にとっては青天の霹靂でした。作業には兵隊や徴用工だけではなく、生徒や学生、県民、村民の多くが動員されました。作業は機械力ではなく、人力であり、馬車やモッコ、ザル等を使い、天野少尉の指揮のもとに進められた、と言います。
 座喜味城は一帯の樹木を切り払い、日本軍の高射砲陣地となりました。空からも、海からも攻撃目標となりやすい高い所に陣地を構えたのでした。宇座では、残波岬にあった古堅家の墓地も高射砲陣地となりました。
 読谷山村の西海岸の内陸部には、米軍の上陸してくる戦車を落すための「戦車壕」が掘られ、海岸の岩の間には、米軍を迎え撃つための陣地が築かれました。沖合い二〇〇から三〇〇メートルほどの海中には、米軍の上陸を妨害するためとして松の丸太を打ち込みました。それを、若い兵隊達は「米軍の上陸用舟艇をひっかけ妨害するためのものである」と言うのでした。
 北(読谷)飛行場には、敵に本物の飛行機と見せかけ爆弾を投下させるためのダミー(模造品)の飛行機も設置されるなど苦肉の策がとられていました。
 一九四四年(昭和十九)十月十日の大空襲は、沖縄県民に、いよいよ米軍の沖縄上陸を強く印象づけるものとなりました。その時、北(読谷)飛行場も爆撃を受け、多くの人々が犠牲になりました。宇座の青年男女九人もその攻撃で、座喜味の或る家族壕で死亡してしまいました。本土への疎開もありましたが、周囲にも知られないように、ひっそりと旅立つありさまでありました。
 一九四五年(昭和二十)に入っても、軍隊も民間人も壕の整備作業を続けていました。
 ヤーガー(ガマ)の周囲に日本軍は交通壕やタコ壷、散兵壕と呼ばれるものをいくつも作っていました。このような動きを通して、村民(宇座区民)は米軍の沖縄上陸がまじかに迫っていることを感じ脅えていたのです。夜間は「灯火管制」があり、各戸の門の横には竹やりが準備され立てかけてありました。アメリカ兵が上陸してきたら、彼らの胸を刺せというのです。二月から三月にかけては、国頭へ避難する者、読谷に残る者など、人々の動きがいよいよ戦争の切迫感を増幅していきました。

 日米の戦略・戦術を斬る――大和魂かそれとも合理的判断か

 二十一世紀を平和の世紀たらしめ得るか否かは、二十世紀の戦争の中から何を学び、何を反省し、何を教訓化し、何を実践し得るかにかかっているのではないでしょうか。沖縄戦の中からいくつかの問題点を回顧し、吟味して未来への指針としたいと思います。
 沖縄戦を回顧した場合、日米両軍の戦略・戦術に大きな相違点のあることに気づきます。何といっても、それは国力の相違であり、国家間のもつ思想(精神)、理念、政策に根本的な違いがあったことです。更に、物事を進める場合の手法が、合理的か、科学的か、計画的か、組織的かなど、こうしたことを検証することは、未来へ生きていく人間にとって極めて重要であります。また、個々の人間だけでなく、無限の生命力を有する読谷村という自治体にとっても肝要であると思います。
 そのような視点に立って『読谷村史』という範囲の中で数点、記録として残しておきたいと思います。

(一)先にも述べた皇民化教育と軍国主義教育は、両国の相違点の最たるものと思うのであります。日本は戦争が始まるとアメリカ、イギリスのことを「鬼畜米英」と称し、学問としての「英語」も敵国の言葉としてタブーにしたと言います。「先んずれば人を制する」という諺がありますが、アメリカは軍人に「日本語」を教え、沖縄口(ウチナーグチ)を話せる日系二世を連れてきました。そして、沖縄の歴史や文化もいろいろと学んできたのです。
(二)日本軍の戦術は正に「中世」のそれであり、ダミー(模造品)の飛行機を置いて本物と見せかけるありさまでありました。
(三)一九四四年の十・十空襲を、最初は日本軍も県民もみな「日本軍の大演習」と思って家からとび出して眺めたものでした。これなど日本軍の「情報収集能力」の決定的な欠如であり、爆弾を投下されてはじめて空襲と知ったのです。何をか言わんやです。
(四)日米の上陸地点をめぐる見解についても後学大事な意味を含んだものであります。上陸地点の予想(日本軍)と決定(米軍側)は、その戦争の勝敗を左右する最重要事項であります。沖縄戦もいよいよ近づいて来る頃になると、毎日のように偵察機(B29、又はB24)がやって来ました。私はこの偵察機を見上げるたびに、何か大きなタカに狙われている小動物のような心境になったのを覚えています。結局、米軍が選定した上陸地点は、読谷から北谷の西海岸でした。その理由の最大のポイントは、二つの飛行場、すなわち北(読谷)飛行場と中(嘉手納)飛行場がそこにあったということであります。二つ目は広い海岸平野(宇座、渡慶次から楚辺、渡具知まで)があり、膨大な兵員と軍需物資の陸揚げが可能な地域であり、三つ目は日本軍の妨害が少ないと思われたこと、四つめは陸海空軍の統合戦略が可能な地点であることをあげております。
 それに対し日本軍が予想した地点は、第一案は那覇〜大山間、第二案は那覇〜与根間、第三案が読谷〜嘉手納間でありました。何故、こんなにも違うのでしょうか。私達も真剣に考えてみる必要があります。北(読谷)飛行場は、上陸した四月一日には既に米軍に占領され、四月五日には米軍は読谷村字比謝(イェーヤ)に、アメリカ海軍軍政府を設立しております。二〇〇一年二月二十八日、沖縄県教育委員会発行の『沖縄県史』資料編12「アイスバーグ作戦」沖縄戦5を見て驚くことは、米軍がいかに綿密に科学的に合理的に事前調査を徹底し事を進めていたかということであります。

 「戦記」より早い米軍上陸と徹底した事前調査

 米軍の沖縄本島への正式な上陸日は、一九四五年(昭和二十)四月一日です。しかし、米軍は上陸作戦を成功させるべく、実際には四月一日以前に徹底した事前調査を綿密に、具体的に、慎重に、かつ大胆にやっていたことが分かります。「米兵を見た」「わけのわからない言葉で話していたのを聞いた」、また上陸して来た米兵から「長浜川沿いに座喜味にのぼり、夜間北飛行場を調べた」などが、海岸沿いに住んでいた人々の証言の中に出てくるのです。
 それを裏づける日米双方の資料があります。米軍の資料は先に記した「アイスバーグ作戦」(八五頁)に「水中爆破隊と同行する偵察連絡観測員」の役割と任務が規定されており、それが具体的に実施されたわけです。
 日本側の資料『沖縄作戦 第二次世界大戦史 陸戦史集9』(陸戦史研究普及会編・原書房)(二一頁)では「米軍の艦砲射撃の重点は、二十七〜二十八日から逐次嘉手納および北谷海岸正面に指向された。沖合いには引き続いて接岸偵察、障害処理、上陸表示等が行なわれていた」とあります。そのことを裏付ける証言がこのほど担当職員の努力で入手できました。
 日系三世で元通訳兵として読谷の西海岸から最初に上陸した坪田※※氏(現在宜野湾市在住)の証言によりますと、「上陸時の海岸上の高台には、米軍が上陸用目印として、木板に三角や四角がデザインされたプラカードのような物が立てられてあった。一発の抵抗もなかった。島尻への陽動作戦が功を奏しているのだと思った」ということです。このような資料や証言を通して明らかになったことは、米軍は本番(四月一日)の上陸作戦を成功させるために、四月一日以前に実質的に上陸(調査等)し、本番にそなえていたことが分かります。

 沖縄戦の特徴と教訓

 沖縄戦の特徴は多くの体験者や研究者、運動家等によって述べられてきたのですが、何故、小さな沖縄の島で、これほど凄惨(せいさん)な戦いが、しかも長期にわたってくりひろげられたのか、その原因を明らかにしておくことは未来への教訓として重要なことであります。
 その一つは、日米最後の決戦場としての徹底した地上戦闘が展開されたことです。米軍にとって、上陸は日本軍の抵抗もなく無血上陸ができたのですが、しかし戦線が中南部に進展するにしたがい、激しい闘いとなりました。米軍は沖縄を日米最後の決戦場と考え、徹底した地上戦闘を行ったのです。
 日本軍は、沖縄の島々に大小一五もの飛行場を造り、米軍を迎え撃とうと考えたのですが、逆にそのことが日本本土侵攻をめざす米軍に絶好の標的となってしまいました。つまり米軍は本土攻撃のためには飛行場を必要としたのです。都合よくそれを日本軍が造ってくれていたのです。読谷村が米軍の上陸地点になった理由も、先に述べたとおり、当時北(読谷)飛行場があったためでありました。基地が存在することによって戦争に巻き込まれた証拠であります。
 二つ目は、日本軍は本土決戦の準備のための時間稼ぎの「捨て石」作戦をとったことです。大本営(軍中央)は、沖縄の守備軍第三十二軍に、本土決戦の準備のための時間稼ぎを期待していました。それに応えて真正面からの戦闘を避け、地下陣地や洞窟にたてこもり、持久作戦の「捨て石」として沖縄をつかったのです。
 三つ目は、沖縄の地形も風景も一変するほどの猛攻撃にさらされました。空と海からの猛攻撃を受け、焦土と化し瓦礫の山と化しました。「鉄の暴風」と形容されるのは、そのためであります。
 米軍は沖縄戦の重要性から、連合軍の総力(総兵力約五五万人)を沖縄戦に集中させたのです。これに対し日本軍は空からの神風特攻機、海上からの特攻艇、陸上では爆雷を背負っての肉弾攻撃、夜間の斬り込み隊という戦法をとりました。日本軍の悲惨さは、国家の始めた戦争で、最後には兵士自身の「肉弾」をもって戦わされたことに象徴されます。
 四つ目は、一般住民を巻き込んだ戦争であったことです。日本政府(軍部)は、「沖縄県民の満十五歳より、四十五歳までの男子全員を召集する」特別召集令を発令し、戦争のために働けるすべての男子は召集されることになりました。要するに日本軍の劣勢を現地召集や防衛召集で補強しようとしたのです。「健児之塔」や「ひめゆりの塔」、その他に祀られている学生達もみな現地召集の対象にされた学徒隊であります。県内各地の飛行場造り、陣地作り、壕掘り、弾薬、物資の運搬などに動員され、食糧(料)の供出などに沖縄県民を根こそぎ動員して、戦争への協力態勢を強いてきました。ところが、米軍が上陸し戦況が厳しくなってくると、日本軍にとって県民は危険な存在と思われ、「集団自決」の強要や、スパイ狩りを名目(日本軍に通じない方言を使うものをスパイと見なした)にした「住民虐殺」、「壕からの追い出し」、「泣く子の口をふさげ」と圧殺を命ずるなど悲惨を極めました。
 五つ目は、戦争目的に各地に飛行場が造られたことです。戦雲急を告げ、沖縄戦必至の状況下で戦争用の飛行場が各地に造られるのですが、北(読谷)飛行場もその一つでした。土地の接収は地主の意思とは関係なく強権的に接収された。読谷山国民学校に集められた地主に対し、天野少尉は「戦争は勝たねばならない。戦争が終わったら土地は返すから協力してくれ」と説明した、と年老いた関係者は証言しています。戦争が終わって五十七年の歳月が経過しました。それにもかかわらず「戦後処理事案」として解決しようとしない国家(政府)を、県民はどのように考えればいいのでしょうか。国家(官僚や政治家)は時の流れにまかせて知らんふりをしてもいいものなのでしょうか。沖縄県民は戦争の実相をしっかりと受け止め、真の平和と正義の実現のため、もっと強くならなければならないのではないでしょうか。
 以上、沖縄戦の若干の特徴について触れました。それを踏まえて沖縄戦の「教訓」を引き出すとすれば、それは「軍隊は決して国民を守らない、守れない」ということであります。極限の状態に追い込まれた時、軍人も民間人もみな生き残りたいのです。軍人の中には壕から民間人を追い出す者もいました。食べ物を奪う者もいました。腹をすかせ、息苦しい壕の中で子どもが声を出して泣くと、その声がアメリカ兵に聞こえたら攻撃されるからと、子どもの口をふさげと命令しました。口をふさがれた子どもは死んでしまうのです。
 沖縄の人が沖縄口(方言)で話していると、それを知らない日本軍から「スパイだ」と言われて殺される事件もありました。それは上官からの命令でもあったのです。一九四五年四月九日発行の司令部「軍会報」に次のような指令が載りました。
 「爾今、軍人軍属ヲ問ハス標準語以外ノ使用ヲ禁ス。沖縄語ヲ以テ談話シタル者ハ間諜トシテ処分ス」
 標準語以外の使用を禁じ、沖縄語(方言)で話す者を「スパイ」として処分するというのです。
 沖縄の人たちは、「友軍」「ユウグン」と言って大事に対応し、身を削る思いで協力もしてきたのですが、何の罪もない多くの住民がスパイの汚名を着せられ殺害された背景には、このような「軍会報」の存在を忘れてはなりません。戦争になった時、地球上のどの動物よりも獰猛(どうもう)な野獣と化していくのが人間であります。過去の戦争の中で、私は日本軍(他国にもある)の中に、その姿を見たり、聞いたりした世代の一人として、敢えて強調しておきたいと思います。
 知性と理性を有し、常識ある人間として我々は軍隊を拒否し、戦争を否定するのであります。これが沖縄戦から学んだゆずることの出来ない尊い教訓であります。それは今、日本国憲法第九条「戦争放棄」として結実しているのであります。

 地域史としての「戦争編」の意義

 沖縄戦当時、米軍従軍記者の一人は「沖縄戦は、世界戦史上、最も凄惨を極めた戦争である」と言っています。
 沖縄戦は日本軍と米軍だけの戦争ではなく、第三の集団としての沖縄県民を巻き込んだ地上戦闘でした。したがって沖縄戦の全体像をとらえるには、日米両軍の公式戦史だけでは不十分で、かつ正確を期すことは不可能であります。それに住民側の戦史を加えることによって、沖縄戦の全体像を把握することが可能となるのです。住民側の戦史の基となるのは体験者を中心とした証言記録です。しかも広範な聞き取り調査と現地調査、それに記述資料との整合性を図るという努力が求められるのであります。
 復帰後(一九七二年以降)、県内の多くの市町村が、それぞれの市町村史(地域史)の発刊に取り組んでまいりました。これからも更に継続されていくものと思います。市町村史は、それぞれの地域のアイデンティティーの確立を目指すものであり、地域の独自性、創造性の発露した姿であります。豊かな地域史を作り上げるために、過去を科学的に検証し、現在の時点で総合的に判断し、その成果を未来へ生かしていく、或いは未来への指針とするところに大きな意義があるのであります。
 勿論、戦争編に限らず、むらづくり、まちづくり運動においても多くの住民の体験や発想、想像力、実践力を生かしていくことが問われているのであります。
 平和行政の立場からこの「戦争編」に限って言えば、戦中世代、戦後世代、今を生きているすべての人々が、この「未曾有の体験(沖縄戦)」から、歴史的教訓を引き出し、それを人間の尊厳と平和創造のために、生かしていくことに大きな意義があります。戦争から半世紀余が経過しても、まだ「基地の島」として存在している沖縄に再び平和の光がさしこんでくることを祈念するものであります。本書『読谷村史』の「戦時記録」が平和の扉を開く力になることを願うものであります。

 平和な社会実現のために

 二十世紀は人類の歴史の中で最も残忍で凄惨に満ちた「戦争の世紀」でありました。その反省と教訓から世界の多くの人々には「二十一世紀こそ平和な世紀に」と心から期待をし、新世紀を迎えたのであります。
 読谷村の復帰後の「基地返還闘争・むらづくり運動」は、沖縄戦の教訓を生かしつつ、村民主体、村民ぐるみの、二十一世紀の歴史の批判にたえうる平和な村づくりの闘いでありました。
 その闘いの理論となり、武器となったものが、日本の平和憲法の精神であり理念でありました。
 読谷村民が二十一世紀に向け、これからも戦争から学んだ教訓と反省を生かし、憲法の平和主義、基本的人権の尊重、主権在民の精神を大事にし、日常生活の中で生かしていく限り、自治体としての読谷村は発展し続け、村民は希望に燃え、誇りを持って前進し続けるものと信じております。
 さて、平和に優る福祉はない、という言葉があります。そこで平和とはなんでしょうか。戦争の対極にあるものとして「平和」が語られることが多いように思います。一般的にはその通りです。でも人間本来の立場に立って、もっと具体的に「平和」とは何か、と論及すると、次のような問いへの答えを見つけだすことではないでしょうか。
 「あなたの住んでいる地域社会に自由はありますか」、「その社会は平等で公平な社会ですか」、「その社会に社会正義はありますか」、「その社会では人権が尊重されていますか」、「その社会は武力による支配ではなく、法によって支配されている社会ですか」、「その社会は生活環境や自然環境は大事に保護されていますか」などです。その中の一つでも欠けていては「平和」な社会とは言えないのです。つまり、この論理でいけば、「平和」とはほぼ理想社会と同意になります。したがって「平和」を運動論で捉えると、右に挙げた具体的な問いへの回答を求めて、民衆が日々運動できる社会こそが、求めている「平和」というものなのかも知れません。国民一人一人の不断の努力が求められるゆえんです。
 別の角度から見ると、その理想社会のことを、私たちは民主主義社会と呼んでいるのです。理想社会の実現は、政治、経済、行政、教育、文化、あらゆる場面で民主主義を徹底することに尽きると思います。
 また、「民主主義の徹底とは軍事組織をなくすことでもある。軍事行動の基本原則は、意に沿わない相手を殺してしまうことである。そうした行動が民主的であるはずはない。軍隊では上官の命令には絶対服従しなければならないのである。そこに民主主義など微塵もないことになる」(ダグラス・ラミス)との指摘に共感を覚えるものであります。
 敗戦後、人々の多くは民主主義社会を創ろうと必死に立ち上がり、そして民主主義の重要性を多くの国民に知らせようとしました。私たちが読谷高校に入学(一九五一年)した時の高等学校の社会科の教科書の書名が「民主主義」となっていたのは、そのためであったのです。

 「それを忘れない」

一 六月二十三日 慰霊の日
  六月二十三日 反戦平和の日
  二十五年前のあの日
  美しかった島の平和は
  悲痛な悔恨と苦悩の叫びにかわった
  父を 母を 夫を 妻を
  子を 友を亡くした人々
  今!
  区民合同慰霊祭へと急ぐ

二 東洋平和のためと教えられ
  天皇陛下のためと死んでいった若者
  戦いの中を生きのびた老婆の顔
  戦いの中を生きのびた老爺の顔
  暗く不幸を背負った顔
  悲惨な歴史の足跡が刻まれた顔
  死んでいった者が残したものは何か
  嗚呼!
  戦争とは一体なんであったのか!

三 「遺族会一同」「区民一同」
  それにさまざまな供花
  僧侶の敬虔けい けんな読経が長々と続く
  それは生き残った者への慰めか
  空しく宙へ消えていく

四 沖縄には戦争の尊い遺産がある
  「ひめゆりの塔」「健児の塔」
  宇座区民にはもっと身近な遺産がある
  「ヤーガー」の犠牲がそれなのだ!
  米軍の爆撃で大勢の人が死んだ
  「ヤーガー」という洞窟の中で
  同級生の「重雄」も死んだ
  草刈友達の「宗一」も死んだ
  「宗一」は爆弾で破壊された「ヤーガー」の
  岩の下敷きのまま
  二、三日生き続けた
  岩は人々の力では
  あまりにも重く大きかった
  「宗一」はくりかえしくりかえし
  童謡を歌い
  唱歌をうたいつづけた
  十四歳の「宗一」は
  重い岩の下で力一杯もがき苦しみ
  戦争をのろい
  救いを求めつつ死んでいった

  悪夢の記憶が忘れられつつある今
  生き残った人々は何をすればいいのか!
  死んでいった人々にはもはや口はない
  死んでいった人々にはもはや訴える術はない
  再び歩みはじめた軍国主義の
  魔手にだまされないために
  生き残った我々は何をすればいいのか
  戦争から学んだ三つの苦い記憶
  それを忘れない!!
  誰が戦争をはじめるのか
  誰が戦争でもうけるのか
  誰が戦争の犠牲になるのか
  この貴重な体験を子や孫に伝えよう
  平和への道を我々の足もとから広めよう

 一九七〇年六月二十三日
 宇座区民合同慰霊祭にて 山内徳信 作

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