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1 南洋出稼ぎ移民の戦争体験
体験記(ポナペ)

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 ボナベ

 ○池原※※(昭和九年生、元沖縄ポナペ会会長)
 ○池原※※(昭和七年生)

 終戦のとき※※は十一歳、姉の※※は十三歳であった。従って以下の記述は、子供の目からみたポナペの様子であり、両親などから聞いた南洋の様子である。

 家族・親戚のつながりと出稼ぎ移民

 ※※と※※の父(明治三十四年生)は、南洋興発を通じて二十歳くらいの時に南洋テニアンに渡り、その後ポナペに移った。ポナペで結婚し、子供五人が生まれた。※※は五人のうちの三番目で次男である。※※の末の妹は沖縄へ引揚げた後に生まれた。尚、テニアンに出稼ぎに行った池原※※は、彼の父方のイトコにあたる。
 戦前、南洋への出稼ぎ移民が盛んな頃、まず家族のうちの一人が出稼ぎに行き、その後落ち着いてから家族や親戚を呼び寄せるといったパターンが多かった。※※の家族・親戚の場合も例外ではなく、父が先ず南洋テニアンへ渡航した後、父の兄弟姉妹とその家族(長姉夫婦、次姉夫婦、五女妹)を呼び寄せた。
 ※※の家族は、マタラニームにあった南洋興発工場の近くのメインストリートに住んでいた。家の近くの通りには街灯がついていた。ポナペには川がたくさんあり、水が豊富であった。

 両親のこと

 ※※が聞いた話では、父は年季奉公が終わった後、嘉手納の農林学校で「草刈人(クサカヤー)」などをした後、南洋に渡った。また、関東大震災(大正十二年 [一九二三])を体験したという話を聞いたこともあり、あちこちに行っていた人だった。いつ南洋に渡ったか正確な時期はわからないが、大体、昭和の初め頃ではないかと思うと※※は言う。
 ※※の父は南洋群島でいろいろな仕事をした。例えば、アイフル(ヤシの一種)を山で取ってきて売っていたことがある。アイフルはボタンの材料として使われていた。アイフル拾いには紐のついたかますを使った。紐を額で支えて背中にかますを背負い、その中にアイフルを入れるのである。また、カラオの樹皮を剥いで水につけ、その樹皮から取り出した繊維でロープを編んで売っていたこともある。ポナペ在住中に、父は数回サイパンへ牛を買いに行ったことがあった。ある時、父はサイパンへ牛を買いに行くと言って出掛けたが、牛は買わずに牛代をカフェで飲んでしまったということがあった。
 母はポナペで支那そば屋をしていた。支那そばの他にもサーターアンダーギーも出していた。お客さんは日本人で、現地の人がくることはなかった。母がポナペから沖縄へ里帰りしたことがあった。父はポナペに残り、母一人での里帰りであった。昭和六年から九年頃の間のことであった。里帰りすることができるほど、経済的に余裕があったのである。

 食べ物

 りんご、アイスケーキ、アイスクリーム、キリンビール、アサヒビール、月桂冠(日本酒)、キッコーマン醤油など、沖縄では戦後にしかみられなかったいろいろな食べ物が南洋では手に入った。スイカなどは、そこらへんに種を捨てるとすぐに芽を出して実がなった。
 近くの川では、えびやうなぎがたくさんいて手づかみでとれた。現地の人はうなぎを「神様の使い」とみなしているようで食べなかった。鹿がいて父がそれを獲って食べたことがあった。

 現地の人々との関係

 現地の住民を「トーミン(島民)」と呼んでおり、「土人」という言葉は使っていなかった。「土人」という言葉は、南洋で実際に生活をしていない日本に住んでいる人たちが使っていた言葉ではないかと思うと※※は言う。島民は、特定の場所(山)に居住させられていた。また、米、酒、タバコは島民には売らなかった。
 しかし、沖縄出身者の中には、彼らに酒やタバコをあげる人もいた。学校からの帰り道に、警察署があり、警官が島民をムチで殴っているのを見たことがある。島民は大きな声で泣いていた。
 子どもの頃、現地の子どもたちや朝鮮人の子どもたちとよく遊んだ。ウチナーンチュは彼らを差別の目で見ていなかったと思うと※※は言う。

 子ども・学校

 役人や学校の教師はすべて本土出身者であり、帽子をかぶり、スーツを着ていた。沖縄出身者はほとんどが肉体労働者であり、身なりで両者の区別は簡単についた。
 国民学校における長姉の学年は男女共学の一クラスで五〇人ほどだった。沖縄へ帰った後に行った学校は男女別クラスだった。国民学校の先生は外交官扱いをされていたと思う。タワシみたいな腕章のついた白い制服を着てサーベルを持つのが学校の先生と巡査の正装だった。四大節(正月、紀元節、天長節、明治節)には、男性の先生は正装して、女性の先生は袴を着た。
 ※※が小学校一年生の時(昭和十五年)紀元二六〇〇年の祭りがあり、生徒全員で旗行列をした。シンガポールが陥落した時にも、学校の生徒が旗行列をした。また、兵隊の慰問で学芸会をやった。
 二〇台くらい連なっている貨物列車(当時ガソリンカーと呼んでいた)が、さとうきびを満杯に積んで走っていた。子供たちは、その列車からよくさとうきびを抜いて食べた。つまり、さとうきびを盗み食いしていたのだが、大人たちはこれに対して何にも言わなかった。
 ポナペでは、ランドセルを背負って、靴を履いて学校に行っていた。昭和十七年の秋に沖縄に帰ってくると、ランドセルなんてものはないし、みんな靴を履いていなかった。ポナペでは毎日ご飯を食べていたが、沖縄には芋しかなかった。ポナペには電気が通っているし、街灯もあった。読谷には電気がなかった。

 ポナペでの様子

 沖縄芝居、サーカス、レビュー、相撲などを興行していた。当時の沖縄に比べると、娯楽がたくさんあった。これは、南洋興発の力ではないかと思う。
 ポナペには照南神社という神社があり、祭りのときには南洋興発の社員たちと一緒にはっぴを着て御輿を担いだ。沖縄に帰ってきてからはこのようなにぎやかなことが何にもなかった。
 ポナペには漁業に従事している沖縄出身の人が多くいた。特に宮古の伊良部の人たちが組織的にかつお漁をしており、かつお節工場もあった。漁師がサバニで魚を獲ってくると、日本人がそれを買いに集まった。おいしい魚が売れてしまうと、朝鮮人が売れ残ったフカ、カマンタ(エイ)、イラブチャー(アオブダイ)などを買っていた。現在沖縄ではイラブチャーは高級魚だが、当時は煮ると柔らかくなるといってあまり好まれなかった。さしみにするとおいしいとも聞いたことがあったが、さしみ用の魚にはマグロやカツオなどが豊富にあり、沖縄の人はイラブチャーには見向きもしなかった。

 引揚げ

 ※※の家族は南洋群島が戦場になる前の一九四二年(昭和十七)に沖縄に引揚げた。八月頃近江丸にてポナペを出発し、横浜、鹿児島を経由して十月頃に沖縄へ着いた。鹿児島から沖縄へ向かう途中、敵艦が近くにいるということで、奄美大島で二、三日待機したことを覚えている。沖縄の十月は寒かった。
 ポナペ島からトラック島まで三日かかった。その間船上では敵の攻撃を想定して難破したときのために浮き袋を身につけていた。父は、海に投げ出された時にばらばらに離れないように子供たち四人と母と自分六人を子守り帯(さらし)で括った。近江丸は、ポナペ、トラック、サイパン、小笠原諸島を経て横浜に着いた。その後、鹿児島、奄美を経由して沖縄に着いた。父は南洋から引揚げて来た後にすぐに大阪に出稼ぎに行った。
 ※※と※※は沖縄に帰ってきてから方言を覚えた。ポナペではヤマトゥグチばかり使っていた。両親がウチナーグチで話すのを聞いても理解できなかった。※※と※※は自分たちがウチナーンチュだと思っていなかった。姉の四、五歳上の人たちはウチナーンチュという意識があったという。

 戦後のポナペ渡航

 戦後に結成されたポナペ会が旅行社を通して一年おきくらいにポナペ行きを募集している。今年(一九九九年)も三七人が参加した。※※は一九八七年九月に第一回の訪問団の団長を勤めた。ポナペへの出稼ぎ移民者は宮古出身者と名護出身者が多かった。読谷山村出身者は南洋のいろんな島々に行っており、特に一つの島に集中していたということはない。
 ポナペで生活していた人々でつくっているのがポナペ会だが、時代がくだってきて移民出稼ぎ者本人が亡くなると、その子どもや孫たちはあまりポナペに関心を持っていない。このへんの事情はサイパンやテニアンとは異なっている。サイパンやテニアンでは多くの人が戦争で亡くなっているので、その遺族が墓参団をつくる場合がある。ポナペでは、戦死・戦災者がほとんどいないのでポナペ会は親睦会という面が強い。

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