読谷村しまくとぅば「むんがたい」

阿麻和利の最後 あまわりのさいご

話者 照屋牛五郎(1898・M31) 地域 楚辺 時間 04:53
  • しまくとぅば
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 アマンジャナーという(ちゅ)ぉよ、屋良(やら)ムルチんかい()()やてーるふーじ。あんしやてーるふーじやしが、うぬ(ちゅ)ぉなー、ちゃーしん人間(にんげの)運命(うんめい)んちあくとぅ。(くー)さいになぎらってぃん、其処(ぅんま)から(いゆ)(ぬー)(とぅ)ってぃが()らだーなー、ちゃーしが成長(ふる)いーたらーうれー()からんしが、彼処(あま)をぅてぃ成長(ふる)いーてぃ、なー人間(にんげん)なてーるばーて。()()やしが。


 あんさーに、次第(しでー)次第(しでー)成長(ふる)いーてぃ頑丈者(がんじゅーむん)なたくとぅ、また勝連(かっちん)(ぐしく)んかい百姓(はくそー)やしがなー使(ちかー)ってーるばーて。あんし、次第(しで)(ちから)(ちゅー)くなたくとぅ、「なー(ぐしく)ぉ、按司(あじ)(くる)(わん)大将(てーそー)なりわる」りぬ(うみ)いぬ()てーるばーてー。


 ある場合(ばーい)なかい、(うみ)(ちゅ)(たる)り、漁民(ぎょみん)てー、「松明(てー)ちきてぃ、(ふに)(いく)ちん其処(ぅんま)んかい()してぃ(くー)よー」んち、(うみ)(ちゅー)んかい(たる)まーに。(うみ)から松明(てー)ちきてぃ(ちゃ)くとぅ、「(なま)彼処(あま)から(いくさ)(ちゃー)びーしが」んち、按司(あじ)合図(いぇーじ)さーに(ぅん)じゃさーに。(うみ)(ふぁんた)んかい、次第(しでー)次第(しでー)()しやーに()()とぅち、勝連按司(かっちんあじ)ぇ。あんしから、勝連(かっちん)(ぐしく)按司(あじ)なみそーちゃんでぃ、たったんに。


 あんしやしが、なーうれー、アマンジャラーりぬ(むの)ぉ、阿麻和利(あまわり)んりぬ(むの)ぉ、(せー)ぬどぅく(ちゅー)さるあくとぅ。なーちゃーしん天下(てぃんが)()勝手(かってぃ)しわるやるりぬ、(うみ)いなやーにやてーるふーじやしが。あんしからまた、中城(なかぐすく)御殿(うどぅん)ぬくりがーなー(わに)んかい、また其処(ぅんま)んかい(ゆみ)()(ちゅー)くとぅ、(ゐなぐ)(ぐゎ)ゐーらちょーけーあねーさんむんち、(ゐなぐ)(ぐゎ)(とぅじ)、ウナジャラんかいしみてーるふーじ。


 中城(なかぐすく)護佐丸(ぐさまる)実際(じっさい)座喜味(ざちみ)(じょー)んかいめんしぇたんでぃよー。山田(やまだ)(ぐしく)から座喜味(ざきみ)(じょー)んかい。座喜味(ざきみ)(じょー)や、あぬ(ちゅ)(ちゅく)みそーちゃんでぃ。あんし、護佐丸(ぐさまる)山田(やまだ)(ぐしく)から、座喜味(ざきみ)(じょー)んかいめんそーち、其処(ぅんま)っち(ぐしく)(ちゅく)てぃめんしぇーしが。首里(すい)(ぐしく)ぬ、中山(ちゅうざん)ぬ、中城(なかぐすく)、「勝連(かっちん)とぅぬたなかんかい、護佐丸(ごさまる)(そー)てぃ(くー)んあれー、勝連(かっちん)(じょー)から(わに)んかい(ゆみ)()くる(おそ)れぬあん」んち。あんさーに座喜味(ざきみ)(じょー)んかいめんしぇーし、中城(なかぐすく)んかい()()しみそーちゃんでぃ。中山(ちゅうざん)命令(めいれい)してー。


 あんしやしが、また阿麻和利(あまわり)ぇ、「くれー護佐丸(ぐさまる)()とぅしわる、首里(すい)(ぐしく)んかいやないる」んち、首里(すい)(ぐしく)んじ婿(むーく)ぉやみしぇーくとぅ。首里(すい)(ぐしく)んじ嘘物言(ゆくしむにー)し、あんさーに、一番(いちばの)中山(ちゅーざぬ)合点(がってぃの)ぉしみそーらんてーるふーじやしが。うんぬ(ばー)中城(なかぐすく)工事中(こうじちゅう)家造(やーぢゅく)いぬ工事中(こうじちゅう)やたんでぃ。あんさーに其処(ぅんま)から使(ちけ)ぇちかてぃ、彼処(あま)様子(ようす)()じーが(ぅん)ぢゃくとぅ。なーうれーまんもーうとぅぬ様子(ようす)()ちょーくとぅ、はっきれー()からんてーるばーて。あんさーに、「あーやいびさー、うぬふーじーやいびーさー」んち、返答(ひんとー)しちゃくとぅ。


 あんしぇーなー、実際(じっさい)やれーくれー護佐丸(ぐさまる)ぬあんするわけーねーんしがんち、(しん)じらんしが。あんし、様子(ようす)()()っ、うぬ様子(ようす)(にん)(わっ)さてーるばーてー、なー。使(ちか)やーに、中山(ちゅうざん)命令(めいれい)やんどーんち、中城(なかぐすく)んかいや(いくさ)仕掛(しか)きたくとぅ。護佐丸(ぐさまる)ん、うれーあねーあらんしがで(うむ)いしが、しかも中山(ちゅうざん)命令(めいれい)なやーに、なーうれー中山(ちゅうざぬ)んかいや(てぃー)()けーならんくとぅ。「なー、()(まくと)間違(まちげ)ぇねーん(まくとぅ)」、やむを()ない、中山(ちゅうざん)命令(めいれい)なたくとぅ切腹(しっぷく)しみそーちゃんでぃ。


 あんし、うぬ(とぅじ)(くゎ)全員(むる)(くる)中城(なかぐすく)ぉ、自分(どぅー)切腹(しっぷく)しみそーんりしが。うっとぅんぐゎーや乳親(ちーあん)ぬ、うり一人(ちゅい)やなー(いとぅま)ぁゐーやーに、乳親(ちーあん)(そー)てぃ(ぅん)ぢ。


 あんしから、また中山(ちゅうざぬ)んかいなー、阿麻和利(あまわり)仕掛(しか)きーるくとぅんかいなてーるふーじ。やしが、中山(ちゅうざぬ)んかいや、なー()きてぃ。


 楚辺(すび)ぬヱーミんち()んよ、ヱーミ(ばる)んち。其処(ぅんま)戦前(せんぜの)闘牛場(うしなー)やたるばー、(ちゅく)てーたるばーてー、其処(ぅんま)ぁモーやんよ、また、アカムイ。


 其処(ぅんま)ぬえーか(うゎー)ってぃ(くー)やーに。其処(ぅんま)っちぇーなー中山(ちゅうざん)なかいぬ命令(めいれい)なかい()さーってぃ、ヱンミせーひち、ヱーミんち()きたんでぃぬ(はなし)。ヱーミ(ばる)りんよ、其処(ぅんま)ぁ。いぇーりん(くる)さりーがひちゃらー、屋良(やら)(ばか)んち(なま)()んどー其処(ぅんま)楚辺(すび)(いー)んかい()んどー。あん()ちゃんりる(はなしー)

 阿麻和利はね、屋良ムルチに捨てられていたようだ。だが、人間には持って生まれた運命というのがあるからね。阿麻和利は捨てられて、そこで魚などを取って食べたのか、どのようにして暮らしていたのかは知らないが、そこで成長したわけだ。



 そうして、成長していくにつれ丈夫になり、勝連城に使われた。そこで、次第に力をつけ、「城主(勝連按司)を殺して私が大将になってやる」という思いになったんでしょうね。



 ある時、阿麻和利は地元の漁師に「松明をつけて、船を何隻もこちらに寄せてくれ」と頼んだ。そして、漁師たちが、海の方から松明をつけて来るのを見計らい、「大変です、今、向こうから敵が攻めてきます」と、城主を崖の方に誘い出し、隙を見て崖から突き落とした。そうして阿麻和利はあっという間に勝連城の按司になったそうだ。


 そうなんだが、この阿麻和利という者はあまりにも野心が強く、もうなんとしてでも、天下を手に入れたいと思うようになった。中山王は、そんな阿麻和利の気配を察し、私に刃向かって来ることがあるかもしれないと考えた。そして、娘をやれば逆らうこともないだろうと、娘を阿麻和利のウナジャラ(王妃)として嫁がせたそうだ。


 また、護佐丸が中城に来る前は座喜味城にいたそうだよ。座喜味城は護佐丸がまだ山田城にいる時に築城し、山田城から座喜味城に移ってきていたそうだ。しかし、中山王は、「首里城と勝連城との間に護佐丸(中城城)を置かないことには、勝連城から阿麻和利がこちらに攻めてくる恐れがある」と。中山王の命令があって、座喜味城にいた護佐丸は中城へ移ったそうだ。



 それで、阿麻和利は、「中山王の忠臣である護佐丸を倒さなければ、首里城を落とせない」と考えたのでしょうね。阿麻和利は婿の立場を利用して、首里城で「中城の護佐丸が謀反を企てている」と嘘をついた。最初、中山王は阿麻和利の言う事を信じていなかったが、丁度その頃、護佐丸のいる中城は工事中だったそうだ。そこへ、使者を送って様子を探らせた。使者は周囲から様子を見ただけなので、はっきりは分からないまま、「ああそうでしたよ、その通りでした」と返答した。


 護佐丸が謀反を企てるはずはないと、中山王には信じがたい事だった。しかし、様子を見に行った使者がそう言ったものだから、中山王は阿麻和利の謀略にはまって中城の護佐丸のところへ軍勢を向けたわけだ。護佐丸としても、それは思いもかけないことだった。それが中山王の命令によるものだと知り、中山王に手向かうわけにはいかないと、「私は清廉潔白だ」と言って切腹したそうだ。



 切腹の前には、妻と子どもたちを殺してから切腹したが、一番小さな乳飲み子だけは乳母に託したそうだ。



 その後、阿麻和利は中山へ攻め入るつもりでいたようだが、(真相を知った)中山に追われてしまった。



 楚辺にはヱンミ原(親見原)というのがあるんだがね。戦前、小高い野原になっていて、闘牛場として使われていた。


 阿麻和利は中山の軍勢にそこまで追い詰められて来たそうだ。そこで、ヱンミ(降参)したので、ヱンミ原という名がついたという話だ。多分そこで殺されたのでしょうね、阿麻和利の墓と伝われる屋良墓が今でもそこにあるよ。そういった話さ。


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解説

阿麻和利は、15世紀中頃に勝連按司として活躍し、「護佐丸・阿麻和利の変」を題材とした組踊では敵役として有名である。阿麻和利は嘉手納の屋良城主、大川按司の子供といわれ、長じて勝連按司となり中山国王の地位を脅かすほどの実力者となった。やがて中山軍に滅ぼされるが、勝連を追われた阿麻和利は故郷である屋良方面へ逃れ、さらに逃れて最期を迎えたのがこの墓近くのウェンミモー(一帯の小字名は親見原)だといわれる。「ウェンミ」とは降参を意味するという。(「楚辺ガイドマップ」名所・旧跡、阿麻和利の墓)

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