読谷村しまくとぅば「むんがたい」

長田の始まり ながたのはじまり

話者 名嘉真光子(1920・T9) 地域 長田 時間 00:32
  • しまくとぅば
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 長田(ながた)は、(むかし)はよ、部落(ぶらく)はなくて(やま)さあね。


 首里(すい)のあのう、廃藩(はいばん)なてぃから、ありからるあぬー、首里(すい)からぬ(さむれー)(ちゃー)一人(ちゅい)一人(ちゅい)めんそーやーにかい開墾(かいこん)あきてぃ、あのぐらいの(あざ)になったらしい。


 あんすぐとぅ、戦前(せんぜん)、いっぺー出来(でぃき)やー(たー)がまんどーたるばー。首里(すい)からぬ人達(しんか)ぬ、自分(どぅー)なー祖父母(ふぁーふじ)ぐらいまでーよー、すごく物知(ものし)りぬ(ちゃー)がまんどーたん。

 その昔、長田という集落はなくて、そこは山ばかりだった。


 廃藩置県後に首里から田舎下りした士族が、そこを開墾して集落ができたそうだ。


 それで、戦前はとても教養のある人が多かったようだ。士族が移り住んでいるからね、私の祖父母の世代には、すごく物知りな人たちがたくさんいた。

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解説

1879(明治12)年の廃藩置県前後、首里、那覇から移り住んだ士族たちにより屋取集落が形成され、後に伊良皆から分離し長田が発足した。「沖縄県中頭郡読谷山村註記調書」(1921年)によれば、39戸118人とある。山間地の川沿いに家々が点在し、村内では小規模な散村集落であった。茶畑、水田、養蚕などが営まれたほか、長田川の豊富な水を利用して水車を整備し、製糖や精米を行うなど自然の恵みを活かした農村であった。 戦後、地域全体が米軍基地嘉手納弾薬庫として接収され、現在の長田公民館周辺への移住を余儀なくされた。軍用地接収後長い歳月が経過し、かつての集落を知る人も少なくなるなか、次世代のため、住民が一致協力して「ふるさと発見活動」に取り組み、1995年に旧集落の復元図を完成させた。 長田川は、読谷村東側を南北に流れる比謝川の支流で親志から喜名、長田を経て比謝川と合流し東シナ海へと注ぐ。流域は、国頭マージの地質の南限域にあたり、沖縄本島北部と中南部の異なる生態系が共存する。ヤンバルを思わせる森、稀少な動植物の生息する希有な河川環境を形成しており、読谷村の誇るべき貴重な自然遺産である。(「長田ガイドマップ」字概況)

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