読谷村しまくとぅば「むんがたい」

牛マジムン うしまじむん

話者 石嶺伝栄(1909・M42) 地域 比謝 時間 01:18
  • しまくとぅば
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 其処(ぅんま)県道(けんどう)からよ、ンモーンモーしなー(うし)マジムンんちよー(あっ)ちゅるふーじてー。


 (ぅんかし)年寄(とぅすい)(ちゃー)よー、夕飯(ゆーばん)()(あとー)よー(ぅんかし)野蛮(やばん)るやてーるふーじでるやる。喧嘩(おーい)がんちる(ぅん)じーたんでぃどー。あんすくとぅ、(いま)読谷(よみたん)ではね(にし)(へー)んち()しぇーやー。あぬ宇座(うーじゃ)渡慶次(とぅきし)長浜(ながはま)(ちゅ)のーよー、くぬ大湾(わん)比謝(ひじゃ)(ちゅ)ぉじこー(うとぅ)るさすたんでぃ、ああ。


 


 だーうれー(なま)(くるま)()るよー、(ぅんかし)那覇(なーふぁ)から(あっ)ちる(ちゅー)るばー、(うゎー)ぐゎー(こー)てぃん樽皮(たるがー)(こー)てぃん(ぬー)しん全部(むる)(あっ)ち、あんし(ちゅー)たんでぃしが。「でぃ、(にし)(ちゅ)とぅ喧嘩(おー)てぃんだ」んちよー、うぬ其処(ぅんま)んかい夕飯(ゆーばん)()(ぅん)じーねーよー()喧嘩(おーえー)しかきーたんでぃ。


 うりからー、かんし(んな)(する)やーによ、(うし)マジムンぬンモーンモーすくとぅやー、「でぃ、うり(から)(とぅ)ら」んちよー。あんし(んーな)(すり)てぃ、(しち)八名(はちめい)かんし(んな)頑丈者(がんじゅーむん)(ちゃー)(あち)まとーるふーじよ。(うし)ぇなーンモーンモーし(ちゅー)るふーじてー。(とぅ)(かち)みてぃ()ぐさくとぅよー。あんしうぬままかんし(かち)みてぃしされー、(ゆー)()きたくとぅよー。



 あぬ(ぅんかし)(ちゅ)(まー)しーねー(がん)()しぇーや、(はか)んかい()っち()ちゅしぇー。あぬ(がん)(さち)んかいユーユーぐゎーぬ()しぇーや(とぅが)いぐゎーぬ、うりなとーたんでぃ。(うし)やあらんたんでぃ、うりるなとーたんでぃ。うりん(うや)(ちゃ)(はなし)

 そこの県道からね、ンモーンモーと牛マジムン(化物)が歩いたようだね。


 昔の人たちは、夕食後にね、(特に理由が無くても)喧嘩をしに通りへ出てきたそうなんだよ。野蛮だったんでしょうね。読谷では北、南とあるでしょう。だから、北方面の宇座や渡慶次、長浜の人たちは、この(通りに面した)大湾、比謝の人たちをとても恐がっていたんだってよ。


 だって、今でこそ車もあるけど、昔は那覇への行き来も歩いてだからね、豚や樽を買うにも何でも歩いていたというからね。比謝の人たちは「さあ、北方面の人と喧嘩してみよう」と、夕食が済むと、すぐ喧嘩を仕掛けに通りに出たそうだよ。


 そうして、このように皆が揃っている時に、牛がンモーンモーと啼くので、「さあ、それを絡め捕ろう」ということになってね。それで、七、八名の強健な者達が集まって、牛が啼きながら来るのを皆で取り押さえたようだ。それで、夜が明けるまでそのまま捕えておいたんだって。


 昔は人が亡くなったら、遺体を墓へ運ぶための龕というのがあるでしょう。その龕の先にはユーユーグヮーという尖った飾りがあるけど、皆が捕まえた牛は夜が明けて見たらそのユーユーグヮーになっていたんだって。これも親たちから聞いた話だよ。


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