其処ぬ県道からよ、ンモーンモーしなー牛マジムンんちよー歩ちゅるふーじてー。
昔ぇ年寄ぬ達よー、夕飯食り後よー昔ぇ野蛮るやてーるふーじでるやる。喧嘩がんちる出じーたんでぃどー。あんすくとぅ、今読谷ではね北、南んち有しぇーやー。あぬ宇座、渡慶次、長浜ん人のーよー、くぬ大湾、比謝ん人ぉじこー恐るさすたんでぃ、ああ。
だーうれー今る車ぬ有るよー、昔ぇ那覇から歩ちる来るばー、豚ぐゎー買てぃん樽皮買てぃん何しん全部歩ち、あんし来たんでぃしが。「でぃ、北ん人とぅ喧嘩てぃんだ」んちよー、うぬ其処んかい夕飯食り出じーねーよー直ぐ喧嘩しかきーたんでぃ。
うりからー、かんし皆揃やーによ、牛マジムンぬンモーンモーすくとぅやー、「でぃ、うり絡み捕ら」んちよー。あんし皆揃てぃ、七、八名かんし皆頑丈者ぬ達が集まとーるふーじよ。牛ぇなーンモーンモーし来るふーじてー。取っ摑みてぃ直ぐさくとぅよー。あんしうぬままかんし摑みてぃしされー、夜ぬ明きたくとぅよー。
あぬ昔ぬ人ぬ亡しーねー龕ち有しぇーや、墓んかい持っち行ちゅしぇー。あぬ龕ぬ先んかいユーユーぐゎーぬ有しぇーや尖いぐゎーぬ、うりなとーたんでぃ。牛やあらんたんでぃ、うりるなとーたんでぃ。うりん親ぬ達ぁ話。
そこの県道からね、ンモーンモーと牛マジムン(化物)が歩いたようだね。
昔の人たちは、夕食後にね、(特に理由が無くても)喧嘩をしに通りへ出てきたそうなんだよ。野蛮だったんでしょうね。読谷では北、南とあるでしょう。だから、北方面の宇座や渡慶次、長浜の人たちは、この(通りに面した)大湾、比謝の人たちをとても恐がっていたんだってよ。
だって、今でこそ車もあるけど、昔は那覇への行き来も歩いてだからね、豚や樽を買うにも何でも歩いていたというからね。比謝の人たちは「さあ、北方面の人と喧嘩してみよう」と、夕食が済むと、すぐ喧嘩を仕掛けに通りに出たそうだよ。
そうして、このように皆が揃っている時に、牛がンモーンモーと啼くので、「さあ、それを絡め捕ろう」ということになってね。それで、七、八名の強健な者達が集まって、牛が啼きながら来るのを皆で取り押さえたようだ。それで、夜が明けるまでそのまま捕えておいたんだって。
昔は人が亡くなったら、遺体を墓へ運ぶための龕というのがあるでしょう。その龕の先にはユーユーグヮーという尖った飾りがあるけど、皆が捕まえた牛は夜が明けて見たらそのユーユーグヮーになっていたんだって。これも親たちから聞いた話だよ。