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用語解説

参考文献

― ら行 ―

陸軍
 師団―旅団―連隊―大隊―中隊などに組織編成され、歩兵隊・騎兵隊・砲兵隊・工兵隊・輜重隊などがあった。
 
陸軍階級
 日本陸軍には、二等兵・一等兵・上等兵・兵長・伍長・軍曹・曹長・准尉・少尉・中尉・大尉・少佐・中佐・大佐・少将・中将・大将などの階級があった。
 
陸軍防衛召集規則
 一九四二年(昭和十七)十月施行。同規則にもとづく防衛召集は、満十七歳以上満四十五歳までの男子に対して、沖縄連隊区司令部司令官名の召集令状をもって執行するのが原則であった。沖縄戦末期には、正規の手続きをへることなく、各部隊ごとに召集が行われた。
 
琉球籍官兵
 敗戦による台湾からの引揚業務の一切を引き受けた、在台湾沖縄県出身の軍人・軍属。日本籍軍人がすべて引揚げた後も、ひき続き台湾に残り、引揚業務を遂行した。正式には「琉球籍官兵集訓大隊」といい、略して「琉球官兵」と呼ばれた。約二千数百人いた。「ポツダム憲兵」参照。
 
糧秣
 兵士の食糧と軍馬のえさ。
 
虜囚
 捕われの身。捕虜・俘虜と同じ。
 
旅団
 師団に次ぐ軍隊の戦略単位。平時は二〜三個連隊からなる部隊で、歩兵旅団・野戦重砲兵旅団・騎兵旅団があった。日中戦争からアジア太平洋戦争に突入すると、師団に属さず、軍または方面軍に属する独立混成旅団が多数編成された。終戦時には九九個の独立混成旅団があった。
 
レイテ沖海戦
 一九四四年(昭和十九)十月、フィリピン中東部のレイテ島沖で行われた日米大激戦。マッカーサー率いる米軍の大輸送船団約一〇〇隻がフィリピンのレイテ湾に侵入、二十日上陸したため、大本営は「空海陸の総力を統合して決戦」を命じた。しかし、日本軍の水上艦艇、戦艦大和・武蔵以下七七隻、飛行機七〇〇機に対して、米軍は空母一七隻、水上戦艇一七二隻など九〇〇隻、飛行機一三〇〇機で応戦し、レイテ島の日本軍は戦死者約八万人、生存者約二五〇〇人でほぼ全滅状態になった。この戦闘で日本軍は、正式に神風特別攻撃隊を編成して戦闘に参加させた。また、米軍はこの作戦の一環として十・十空襲を行った。
 
レーション
 収容所内で配給された米軍の野戦用携帯食糧。Kレーションは小さな弁当箱大の紙箱にB、S、Dと分けられ、それぞれビスケット、ハムエッグ、レモンパウダー、コンビーフ、ベーコン入りチーズ、粉コーヒー、粉スープ、煙草四本などが入っていた。Cレーションは二種類の缶詰セットで、ひとつには肉類かスパゲティーなどが入り、もうひとつにはビスケット、粉コーヒー、粉スープなどが入っていた。
 
連合艦隊
 二個以上の艦隊を連合して編制した艦隊。旧日本海軍では、対外作戦用の艦隊のほとんど全部を一つの連合艦隊に編合した。
 
連隊
 旅団に次ぐ軍隊の戦略単位。独立団隊。兵営を構え、最も重要な位置付けをもつ陸軍部隊。連隊長には大佐、中佐がなる。連隊のうち歩兵連隊と騎兵連隊にのみ天皇からの軍旗(連隊旗)が創立時に授けられた。連隊に属する大隊は、少佐が大隊長となり、連隊から離れて行動することもあった。日中戦争以後は独立歩兵大隊が多く作られ、歩兵連隊を持たない師団や独立混成旅団の主力を構成した。中隊は平時の陸軍部隊の最小単位。軍隊の基本教育を行った。
 
練兵休
 兵士がケガや病気などで戦列を離れ、訓練を休むこと。
 
練兵場
 兵士や部隊に教練・演習などを行う場所。
 
蘆溝橋事件
 日中戦争のきっかけになった事件。一九三七年(昭和十二)七月七日の夜、北平(現北京)から南西約六キロにある永定河(ヨンチンホー)に架かる蘆溝橋(ルーコウチャオ)付近で、日本軍の一個中隊が夜間演習をしていたところ、近くに駐屯していた中国軍の方向から数発の銃声が鳴り響き、同時に日本兵一人が行方不明になった。彼は道に迷って中国軍陣地に近づき、発砲されたが、その後、無事に隊に戻っていた。ところが、連隊長は攻撃命令を発し、翌八日早朝から九日十一時まで中国軍への攻撃を行った。十一日、中国軍が日本軍の要求を受け入れて停戦協定が調印されたが、陸軍参謀本部内で「対支一撃論」を唱える戦争拡大派の主張により、近衛内閣は三個師団の派兵を承認。宣戦布告をせずに「北支事変」と命名した。二十五、二十六日、再び日中両軍の衝突事件が起きると、日本政府は武力行使を指令。北平・天津への総攻撃を開始し、戦火は上海まで拡大した。八月十五日「支那軍の暴戻(ぼうれい)を應懲(ようちょう)し以て南京政府の反省を促す為」との首相声明を発表し、宣戦布告もないまま全面戦争へ突入した。九月二日支那事変に改称、十一月大本営を設置し、以後八年間に渡り、一〇〇万の兵を中国大陸へ送り込んだ。
 
論功行賞
 功績を論じ定めて、賞を与えること。
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